城下町の測量

戦国時代以降、大名は計画的な政治支配のため、都市建設をはじめました。都市の中心は政治と軍事の拠点である城郭です。城下町には家臣の住居が建てられ商業、手工業も発達しました。都市建設の測量の際、基準となる目印が残存しているところもありますが、これも伝承によるもので根拠は乏しいのです。

滋賀湖北 山本山の見当杭 (けんとうぐい)

地図:竹生島

山本山は滋賀県湖北町にあり琵琶湖の最北部湖岸に接している標高324メートルの山です。この山は山本城跡になっており10世紀中頃、山本義定一族によって築城されたようです。山頂の本丸跡の片隅に「見当杭」(けんとうぐい)といわれる一辺14センチメートルの角木柱が立っており、説明板によれば江戸時代の測量の基準とし高さ一丈四尺(4.62メートル)の柱を立てたのがはじまりと伝えられ以後20年ごとに立て替えられているそうです。放射トラバース測量の中心点とされたことも考えられます。

「見当杭」の設置根拠は地元「山本区」(旧朝日村大字山本、明治初期は山本村)の伝承からで文献などによるものではないという湖北町教育委員会の話でした。現在のものは2000年(平成12)に山本山保勝会によって設置されました。現地には地中に差し込めるよう花崗岩の切石で約20センチメートル四方の囲いがあるそうですが確認はしてません。山本山は田中山とも朝日山ともいいます[東浅井郡私立教育会:東浅井郡誌 1901 p255、265]

かつて越後高田城には積雪を測るため「雪竿」といい長さ一丈の木を角に削り尺を刻んで建っていたそうです。琵琶湖北部も豪雪地帯であり、あるいは積雪を測ったのかもしれません。[鈴木牧之:北越雪譜 岩波 2006 p26]

萩城下街割

地図:萩

萩城下街割原標石は萩市大字江向の萩市役所となり、市民館北西角に見られます。地上高さは52センチメートル、横幅27センチメートル、厚さ最大22センチメートルの玄武岩で表面は平ら、背面は丸みがあり、たがね跡のような痕跡がありますが刻字は見当たりません。

1962年(昭和37)に萩市指定文化財(史跡)になっています。また1967年(昭和42)に道路拡張のため現在の位置に移設されました。元位置は現在地の北西10メートル地点にあり道路上に花崗岩の表示があります。[萩市史編纂委員会:萩市史 第1巻 萩市 1983 p195−198]

現地の説明板によれば江戸中期の「鳥田智庵記」という文献に「萩の正中石」として載っており藩士長富佐兵衛が命を受けて石を立て、萩の城下町をつくるときの測量の起点にしたと伝えられています。しかし、この文献は現在、所在不明になっており萩市では文化財指定のさい安藤紀一著の「萩史料」にある「鳥田智庵記」の引用を根拠にしているようです。[安藤紀一:萩史料 安藤芳彦 1935 p4]

「萩史料」には萩城下建設時の町割りに関する明確な記述がなく後年、拡大解釈され町割りの際に測量の起点として、この標石が設置されたという説が定着しているようです。萩城下の真ん中を示した標石には違いないようですが測量に用いられたかは定かではありません。また標石の設置は18世紀前半と考えられます。[樋口尚樹:萩市指定文化財「史跡萩城下街割原標石」再考 萩市郷土博物館研究報告 第9号 萩市郷土博物館 1999 p1−5]

京都の六角堂には「へそ石」と呼ばれる礎石があり京都の中心といわれています。[林屋辰三郎:京都 岩波新書 1962 p163]

ついでながら萩城跡に明治中期の几号水準点があるとの噂あり、調査したところ毛利氏の家臣、柳沢氏の家紋で「傘」の略字(内側が「十」)が上下2文字つながり「人」「木」「T」を縦に並べたような刻印が南門右手裏石垣にあり、この刻印真ん中が「不」の字に読めることから誤認したのではないかと思われました。


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