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一里塚

一里塚は全国の街道の両側に1里ごとに旅人の目印として設置したもので9メートル(5間)四方の土盛りの塚です。桃山時代以前にもあったようですが全国的に整備されるようになったのは1604年(慶長9)頃で徳川家康が諸街道の修理とともに日本橋を起点として一里塚築造を命じました。塚上にはエノキやマツが植えられ旅人には位置や距離がわかり旅人が木陰で休息がとれるようになっていました。明治以降、道路拡幅や農地、宅地へなどの転用によりほとんどが消滅しています。もともと街道の両側にあった一里塚は残存していても片側だけが多いようです。一里塚はこの頃、出現した諸国の国絵図に描かれています。一里塚の位置が絵画的な表現でなく記号に置きかえられており道路上には、ところどころに朱色の線を挟んで黒い2点が記載されています。しかしこの一里記号が必ずしも一里塚の設置ヶ所を図示したものではないという説もあります。[川村博忠:江戸幕府撰元禄日本図の内容とその切写図について 「人文地理」第60巻 第5号 2008 p9]

「正保国絵図」調製についての布令では「道法六寸一里にいたし絵図に一里山を書付 一里山無之所三十六丁一里に間を相究 絵図に一里山書付候事」とあります。「六寸一里」は二万一千六百分の一に相当します。[高木菊三郎:一里塚と水準点 「測量」 日本測量協会 1959.8 p32]

東京板橋区 志村一里塚

地図:赤羽

都営三田線志村坂上、A1、A2出口で志村一里塚交差点に見られます。国道17号をはさんで南北に2ヶ所あります。それぞれの塚にエノキの大木が残っています。この一里塚は本郷森川宿、板橋宿平尾宿につづく中山道3番目のものです。1922年(大正11)国の史跡に指定されています。1933年(昭和8)から行われた新中山道の工事で周囲に石積がされました。

京都山科 大宅一里塚跡

地図:京都東南部

京都市山科区大宅(おおやけ)甲ノ辻町にある一里塚跡です。地下鉄椥辻(なぎつじ)の東南800メートルに名神高速道路と奈良街道が立体交差する地点があります。その東にある信号のに西側、駐車場に見られます。東海道から追分で分岐した奈良街道の一里塚で石で囲まれた1.5メートル程度の塚にエノキの巨木が植えられています。1985年(昭和60)に京都市の史跡として登録されました。「おおやけ一里塚跡」の標柱は1982年(昭和57)に地元のライオンズクラブで建てられたものです。

滋賀県守山市 今宿一里塚

地図:草津

滋賀県守山市JR守山の西1キロメートルにあります。守山駅から北東の商店街を通り過ぎると旧中山道(なかせんどう)に出会い、それを左に曲がり旧街道に沿って約600メートルの左側、今宿二丁目4になります。塚は2.5メートル程度の土盛りでエノキの巨木が植えられています。

今宿一里塚は五街道のひとつである中山道の一里塚で江戸日本橋から128番目にあたる塚です。滋賀県内では、この中山道のほか東海道、北国街道などに設置されていましたが、ほとんど消滅し現存するものはこの一里塚だけになりました。それも街道をはさんで南北にあったものが南の塚だけ残っています。エノキは昭和中頃に枯れましたが脇芽が成長して現在にいたっています。滋賀県指定史跡になっています。

守山市駅前総合案内所でもらった案内書によれば、この一里塚は中山道67番目の宿場である守山宿に隣接してあります。また「京発ち守山泊り」といわれたように京を発った東下りの多くの旅人は守山宿で一日目の行程を終えるため旅籠が軒を連ねて賑わいのある宿場であったようです。当時の宿場の家数は415軒、住人1700人、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は30軒ありました。一里塚近傍には往時の面影を忍ことができる家なみも残っています。

1702年(元禄15)の元禄国絵図や1838年の(天保9)天保国絵図に街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。今宿の位置にも載っています。この国絵図は国立公文書館所蔵のもので複写掲載の承認は得ていますが転載はできません。


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