伊能忠敬(いのう・ただたか、1745〜1818)は50歳で家督を譲り江戸に隠居し天文学者である高橋至時(たかはし・よしとき、1764〜1804)の弟子になりました。西洋天文学を習得するにつれ地球の子午線(緯度)1度の弧長を測定することに興味を抱き56歳のとき自費で奥羽街道から蝦夷地(北海道)南東海岸まで測量し地図を幕府に上程、以来18年にわたり全国測量を行ない実測による日本初の全国図である大日本沿海輿地全圖(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の作成に取り組み74歳で死去しました。この地図は「伊能図」ともいわれ大図(三万六千分の一、214枚)、中図(二十一万六千分の一、8枚)、小図(四十三万二千分の一、1枚)、別小図(八十六万四千分の一)など合計7種類の地図があります。大図は延長56メートルに達しますが2001年(平成13)米国議会図書館でみつかり、その復元図が2003年(平成15)に東京国立博物館で展示がありました。わたしも見に行きましたが大きさに圧倒されました。現在、大図の所蔵は米国議会図書館(日本陸軍の測量機関で利用した形跡あり)、国立国会図書館(内務省地理局が模写か)、国立歴史民俗博物館(陸軍利用か、秋岡武次郎旧蔵)、海上保安庁海洋情報部(海軍の測量機関により海図作成に利用か)、山口県文書館(毛利藩旧蔵)、松浦史料博物館(平戸藩旧蔵)、東京国立博物館(九州沿海図の標題あり)などに分散して見られます。
子午線1度の弧長は江戸深川から仙台を経て青森の野辺地までの路線をいくつかの区間にわけその実測長から28里2分を得ることができました。これは110.7キロメートルにあたり現在わが国の緯度35度での値である110.9キロメートルに極めて近い値です。伊能が子午線1度の弧長の実測に着手した動機は当時、地球の大きさが決定されておらず暦での日、月蝕の予想計算に不都合が多いことともいわれていますが、むしろ、このような暦学計算とは別に高橋至時とともに地球の測定自体に関心を持つようになり、それが全国測量に発展したようです。当初、高橋は伊能が求めた実測値を信用せず後になってから「ラランデ天文書」に記された値がよく一致することを確認しました。高橋は同書によって地球は正しくは球体でなく南北に扁平な回転楕円体であることも知りました。[中村士:科学史入門:幕府天文方高橋至時 その生涯、業績と影響 「科学史研究」第98巻 No.251 日本科学史学会 2009 p160]
伊能図の特徴
伊能忠敬は海岸線やおもな街道の測量によって地図をつくったので内陸部はあまり詳しくありません。山や川は交会法で測量したもの以外は見取り図程度になっています。荒井郁之助の東京地学協会での講演では伊能忠敬の測量成果を科学的に評価しています。
伊能氏ノ測量圖ハ其大概ニ知ラントスルニハ極メテ適當ノモノ(中略)氏ハ其沿海ト道路トヲ測量セシモノナリ之ニ因リテ完全ノ地理地積圖ヲ製スル能ハサルモノナリ [荒井郁之助:測量術沿革考「東京地學協會報告」第四巻第五号 東京地學協會 1882 p249]
測量の方法は「導線法」(または道線法)とよばれ現在のトラバース測量(または多角測量)に近い方法でした。一点から他点への方向を磁針で定め距離を鎖や蔓のものさしや歩測によってもはかりました。忠敬の一歩は約70センチメートルであったといわれています。また曲がり角には梵天(ぼんてん)とよばれる竿を目標にして現地点からつぎの目標点への角度を「彎○羅鍼」(○はウ冠にハの下に巣の旧字、わんからしん)という小方位盤で測定しました。また誤差を少なくするために「交会法」を併用し、ときどき山や天体など遠くの目標物を象限儀などで測定し修正しました。
現在の三角点のような標石は残置されていませんが要所、要所の岩石などに目印をつけていったことが伊能忠敬の測量日記から知ることができ「測止めの石」などと呼ばれていますが実在は確認されていません。(例として)[佐久間達夫校訂:伊能忠敬測量日記 第二巻 大空社 1998 p526(原本は四十六巻 文化10年12月27日 1813 伊能忠敬記念館蔵)][龍野市:龍野市史 第二巻 1981 p341]
また伊能大図には1063ヶ所の天測点位置が星じるしで記入されています。天測点では緯度(経度ではない)を観測しましたが宿泊地の民家の庭、畑などの特定の位置であったためか標石は設置されなかったようです。長崎県福江の天測点位置には記念碑があります。
伊能図には経緯度線が引かれていますが、これについては古くから問題が提起されています。伊能図ではまず各緯線上に緯線間隔に相当する経度弧長を算出し、それらの値を京都を通る経線を中心(中度)として東西にプロットし最後に対応する点を結んで経線としました。このような網目はサンソン・フラムスチード図法(Sanson-Flamsteed)と呼ばれていますが、同図法を採用したことにより、中央経線から離れるにつれ、実際の経度とのずれが目立っています。忠敬の時代には、この図法は日本へまだ伝わっていなかったので経線はあとから記入されたという説が最近有力です。[大谷亮吉:伊能忠敬 岩波書店 1917 p484−485][保柳睦美、増村宏、広瀬秀雄:伊能忠敬の科学的業績 古今書院 1974 p21−24、この文献のなかに渡辺慎述編「伊能東河先生流量地伝習録」が収録 p361][羽田野正隆:伊能図の評価と今後の課題 伊能図に学ぶ 朝倉書店 1998 p167−168]
伊能忠敬の生誕地
地図:上総片貝
伊能は1745年(延享2)現在の九十九里町小関で生まれました。1996年(平成8)に誕生250周年の記念事業として九十九里町で生家跡に銅像を建て周囲に公園を整備しました。
生誕地は千葉県東金市のJR東金から約7キロメートル東でかなり交通の不便なところです。「伊能忠敬記念公園」には象限儀を用いて天測をしている伊能の像、当時の測量の様子を絵にした陶板、「子午線一度の偉業」と題した公園設置趣旨の石碑、1967年(昭和42)に建てられた「伊能忠敬先生出生之地」石碑などが見られます。周囲は広い庭の農家が多いようです。
伊能忠敬の史跡
地図:東京首部
伊能測量開始200年記念として東京深川の富岡八幡宮に2001年(平成13)10月にモニュメントが設置されました。1800年(寛政12)4月(陽暦6月)55歳の忠敬はこの地から全国測量の旅に出発しました。銅像は彫刻家、酒井道久さんの作で日本地図の刻まれた高さ2メートル半の黒御影石を背に右手に方位盤をもち測量に出立する姿を形どったものです。左の半球形の石は三等三角点「富岡八幡宮」5339−46−0401の保護石です。[地図ニュース編集部:伊能忠敬像・三角点モニュメントが完成 地図ニュース 351 2001年12月]
2001年(平成13)のNHKの正月番組として井上ひさしの「四千万歩の男 伊能忠敬」が放映されました。主演は橋爪功、高島礼子でした。また2001年(平成13)11月「伊能忠敬 子午線の夢」という映画が上演されました。監督は小野田嘉幹(おのだよしき)、主演は加藤剛、賀来(かく)千香子ほか俳優座の皆さんです。この映画のクライマックスで土砂降りのなか丹波哲郎の扮する薩摩藩主島津重豪(しげひで)が伊能忠敬と対決する場面がありますが、このとき島津重豪は琴富士の扮する雷電為右衛門に肩車されています。雷電は江戸時代の無敵の力士(大関)ですが富岡八幡には昔から相撲顕彰碑があり雷電のものもあります。伊能と雷電がお互いにモニュメントとなって同じ場所で顔合わせをするのも、なにかの因縁でしょう。
また伊能忠敬の住居跡は地下鉄門前仲町を出て永代通りにそい北西にすすみ陸橋のある葛西橋通りと交差するところを右折し200メートル先の葛西通りに面する「浅井そろばん塾」前に1968年(昭和43)に江東区が建てた石碑があります。1795年(寛政7)から1814年(文化11)までの住まいですが実際は全国の測量のため不在が多かったようです。その後1818年(文政元)に亡くなるまで現茅場町16あたり(八丁堀亀島町ともいわれます)の地図御用所に住んでいました。
伊能忠敬の墓所は東上野六丁目の源空寺です。地下鉄銀座線稲荷駅近くで佐衛門通りに面した源空寺本堂の道をはさんだ南に墓地があり伊能忠敬の遺言により高橋至時の傍らに葬られています。正面通路左奥から「東河(とうか)伊能先生之墓」の刻字がある伊能忠敬、「東岡(とうこう)高橋君之墓」の高橋至時、谷文晁(たにぶんちょう 1763〜1840 風景画家 「日本名山図会」など刊行)、「玉岡高橋景保墓」の高橋景保などの墓があります。
伊能忠敬記念館
地図:佐原東部、佐原西部
伊能は1745年(延享2)現在の九十九里町で生まれましたが1762年(宝暦12)現在の佐原市にある伊能家の婿養子になりました。1795年(寛政7)隠居し江戸にでるまで佐原に住み、名主をつとめ家業は醸造業などを営んでいました。48歳のとき、伊勢神宮への旅では緯度、方位観測をしており、このころから天文、暦学、測量などに興味があったようです。JR佐原の南東800メートルの利根川支流の小野川沿いに伊能忠敬記念館があり遺品や業績のかずかずが展示されており川向いには旧宅が保存されています。
記念館にある著名な文献では、まず「寛政歴法」1797年(寛政9)全3冊、寛政暦の作成に際して西洋天文学の成果が採用されものですが高橋至時編で一部に忠敬の筆写が入っています。ついで「恒星経緯表」1797年(寛政9)作、忠敬の観測による実測値が記載されています。さらに「ラランデ暦書管見」1803年(享和3)全8冊、底本はフランスの天文学者ラランデ(1732〜1807)の1771年の著作ですが高橋至時稿で一部に忠敬の筆写が入っています。これら3組の文献はいずれも重要文化財になっています。
市内の諏訪公園には1919年(大正8)に建てられた銅像があります。台石の刻字は漢学者塩谷時敏の書で「仰瞻斗象俯畫山川」、仰いでは斗象を瞻(セン、みる) 俯しては山川を畫く とあります。星座(斗)を見あげ(瞻)、地図を描くという意味でしょうか。意訳すれば昼夜分かたず勉強せよということですね。そのほか小野川にかかった「忠敬橋」、野菜漬物の「忠敬漬」など気がつきました。
伊能忠敬北海道最初の測量地
地図:函館
モニュメントは全国方々にあります。函館山頂にある展望台外壁の碑は1957年(昭和32)函館市が設置したもので「伊能忠敬北海道最初の測量地」とあり1800年(寛政9)伊能忠敬の測量日誌が引用されています。
伊能忠敬測地遺功表
地図:東京西南部
東京芝公園の東照宮裏山にある碑はもともと1889年(明治22)東京地学協会によって青銅製のものが設置されましたが戦時中失われ1965年(昭和40)に高さ1.5〜1.8メートルの花崗岩2枚で扇形のものが再建されました。たたんでも半ば開いているような扇を「中啓」(ちゅうけい)といいますが「忠敬」(ちゅうけい)と語呂合わせにしたようです。碑には「伊能忠敬測地遺功表」と刻んであります。
釜石市唐丹町 測量の碑
地図:平田
JR釜石の南7キロメートルにある唐丹町(とうにちょう)本郷にあります。釜石市街から国道45号を南下し石塚トンネルをでて小白浜トンネルの手前で東の県道にはいるとすぐに本郷の集落に入ります。十九所(つくも)神社への石段をすこし上った山の中腹に碑があります。
碑は1801年(享和1)伊能忠敬が唐丹村で測量したことを記念して1814年(文化11)に地元の天文学者、葛西昌丕(かさい・まさひろ 1765頃〜1836)が建立したものです。碑には測量術の伝来や西洋天文学の説による緯度の「微動」があることを予測し後世にその観測を託したことが刻まれています。「微動」については意味不明ですが惑星の自転軸に見られる微小な運動である「章動」ではないかといわれています。[作花一志、福江純:歴史を揺るがした星々 恒星社厚生閣 2006 p131−133]
「測量の碑」の左隣には葛西が没してから偉業をたたえるため門弟が建立したもので「遺愛の碑」とよばれています。両碑とも刻字が磨耗して読みにくいところが多くあります。
両石碑の前の地面には葛西が設置したとされる「星座石」があります。径50〜70センチメートルの自然石に忠敬測定した北緯39度12分の数値を中心に黄道十二宮や星座名が刻まれています。このレプリカは「測量の碑」の右隣にあり文字は判明できます。なお、これらの石碑などが元からこの位置にあったかは不明です。
伊能忠敬が寄進したとされる方位石
地図:八幡
北九州市若松区浜町の若松恵比須神社には伊能忠敬が寄進したとされる方位石があります。JR若松から北東700メートル、若戸大橋高架導入路の下にある神社です。高さ1メートルで4段重ね、最上部の方位盤は直径49センチメートルで東西南北と十二支による方位が刻まれています。もとは境内の波打際にあったものが若戸大橋の拡幅で本殿西に移設されました。伊能の寄進については記録はありません。(社務所談)
伊能忠敬宿泊跡碑
地図:神湊
JR鹿児島本線赤間の北西7キロメートルの海岸、宗像市神湊(こうのみなと)に「伊能忠敬宿泊跡」碑があります。料理屋「魚屋」の玄関西にあり一辺17.5センチメートル、地上高さ160センチメートルの角柱です。1966年(昭和41)に建てられたもので南面に「伊能忠敬宿泊跡」のほか西面に「藩米積出場跡」などの刻字もあります。伊能によるこの辺りの測量は1813年(文化10)頃です。[山岡光治:訪ねてみたい地図測量史跡 古今書院 1996 p116]
伊能図とシーボルト
地図:長崎東北部
地図の完成は死後3年後、高橋景保(たかはし・かげやす、1785〜1829、高橋至時の子)ら門弟の手によります。景保は当時、極東沿岸の測量やロシアの使節レザーノフ(Nikolai Petrovich Rezanov 1764〜1807)をナジェジダ号で長崎に送ったクルゼンシュテルン(Ivan Fedorovich Krusenstern 1770〜1846)の著書「ナジェジダ号とネヴァ号による世界周航の旅」を入手するため国禁をおかし江戸滞在中のシーボルト(Philipp Franz von Siebold 1796〜1866)に地図の一部を贈りましたが間宮林蔵の介在により幕府の知ることになり景保はとらえられ獄死、シーボルトは国外追放になりましたが、ひそかに持ち出した地図はクルゼンシュテルンにより多大の評価をされました。(シーボルト事件)
大阪堺での伊能の天測位置
地図:堺
伊能忠敬測量日記によると1805(文化2)8月(旧暦)に和歌山から北上し大阪南部の淡輪、佐野、岸和田を経て同月17日(西暦では9月9日)には堺に止宿しています。「此夜曇雲間測」とあり当夜は曇りにかかわらず天体観測をしたことがわかります。また伊能大図にも堺の位置に星じるしがありこのことを裏付けています。[佐久間達夫校訂:伊能忠敬測量日記 第二巻 大空社 1998 p53]
伊能の日記には堺の止宿先は明記されていませんが天測位置は現在の堺区市之町西一丁目付近と推定されます。大小路筋(おうしょうじすじ)と阪堺電車の通る大道筋(おおみちすじ)の交差する堺警察署の前あたりになり南海電鉄堺から東南へ500メートルのところです。2005年(平成17)8月に開催されたウオーキング大会ではこの位置に説明板を立て国土地理院の職員が説明したそうです。
現在の大道筋は昔の紀州街道になり、また大小路筋との交差点には「泉攝両国 堺南北両庄の界 大小路」の石碑が1958年(昭和33)に建てられています。伊能は街道に沿って測量が行ったと考えられるので、この位置付近が天測位置であろうと推定されます。
伊能忠敬と伊能図の切手
伊能忠敬の切手があります。肖像画のほうは生誕250年を記念して1995年(平成7)発行、地図は長崎、佐賀、福岡三県のふるさと切手として1997年(平成9)に発行されています。切手の図案は伊能の大日本沿海與地図を背景に長崎街道に沿って左から長崎出島、佐賀精煉方、九州自動車道(鳥栖)、小倉城と常盤橋を描いています。
伊能図の利用
伊能図は作成されたあと江戸城内の紅葉山文庫に収められたままで、どのように利用されたか明らかではありません。しかし1854年(安政1)の開国から10年をへて、精密な日本全図の必要に迫られた幕府は1867年(慶応3)に、この地図を「開成所」から「官板實測日本圖」として刊行されました。開成所は1868年(明治1)に開成学校、のちに大学南校、東京帝國大學に統合されました。1871年(明治4)以降には伊能図をもとにした日本全図が一般市民を対象に続々と刊行されることになりました。また維新後、内務省、陸軍省であらたな地図づくりの基本として活用されました。なかでも明治時代の代表地図である参謀本部陸地測量部の「輯製(しゅうせい 輯成とも書く)二十万分之一圖」の基図として複写、利用されことは注目されます。当時のおもな事業はつぎのとおりです。
1870年(明治3) 伊能小図による「官板實測日本地圖」を大学南校から再出版
1873年(明治6) 伊能図を編さんし銅版印刷による「大日本全圖」を刊行
1876年(明治9) 参謀局で伊能図の複写に着手
1879年(明治12)伊能中図をもとに「軍管圖」の調製を完了
1880年(明治13)伊能図をもとに百六十万分の一「日本全国輿地圖」を内務省地理局作成
1884年(明治17)伊能図などをもとに「輯製二十万分之一圖」の編集に着手
1893年(明治26)同上完了
以上の年表は2003(平成15)年に東京国立博物館での「伊能忠敬と日本図」展覧会の掲示をもとに作成したものです。「輯製二十万分之一圖」は基本資料として伊能図をつかい内陸部を補足調査して作成した暫定図でしたが、そのご並行して三角測量がすすめられ、漸次、新しい「帝國圖」に置き換えられました。伊能の測量でも難航した屋久島と種子島は最後まで残されこの地域の「輯製二十万分之一圖」が「帝國圖」に置き換えられたのは1929年(昭和4)のことです。