17世紀、江戸時代になるとヨーロッパからの技術伝来が盛んになりポルトガル人フェレイラ(Christovao Ferreira 沢野忠庵に改名)により天文測量術も伝えられました。、当時の天文観測は測量よりも改暦のためにつかわれていました。
京都改暦所跡
地図:京都西北部
京都改暦所は江戸時代1797年(寛政9)頃につくられましたが今は跡形もありません。京都市中京区西月光町(御前通姉小路東入る)にある月光稲荷の北側に天文台があったということが今でも地元の人に語り継がれています。西月光町という名前がいかにも天文台と関係深そうなので、わたしも探しましたが跡地を示す標石もありません。
地球上の一地点と地理の南北極とを含め平面が地球表面と交わった大円を地球子午線といいます。京都改暦所は日本で最初の「本初子午線」が定められた場所といわれています。「本初」というのは地球経度0度の子午線をいうのですが現在は英国の旧グリニッジ天文台を通る子午線と決められています。昔は各国まちまちでパリ天文台が本初子午線であったこともあります。昔の各国の地図も経度のとり方はいろいろあります。
江戸時代の地図測量で有名な長久保赤水はすでに1778年(安永7)「大日本輿地路程全圖」(輿地−よち、の輿は万物を載せる台という意味)で京都を中央経線に、また伊能忠敬(いのう・ただたか)も1801年(享和1)の第2次測量以降、京都を中央経線にしています。伊能忠敬の1809年(文化6)作、「日本輿地図藁」(にほんよちずこう)には京都を通る子午線を「中度」東西を「東一度」、「西一度」というように表しています。また高橋景保(たかはし・かげやす)の1809年(文化6)作、「日本辺界略図」も同様です。ずっと後の地図、川上寛の1871年(明治4)作、「大日本地図」では、もはや中度は東京になっています。これらの地図は神戸市立博物館にあり、わたしも見たことがあります。
なお改暦についてですが暦法を改めることを改暦といいます。わが国では平安時代から宣明暦(せんみょうれき)という中国の暦がつかわれていました。しかし人手でつくった暦(カレンダー)が実態(日食などの自然現象)と合わなくなってきたり外国の影響がはいってきたため江戸時代には何度か改暦されています。
採用年 暦名 主作成者 ------------------------------------------------------------------------------- 1685年 貞享暦(ていきょうれき) 渋川春海 (しぶかわ・はるみ) 1755年 宝暦暦(ほうりゃくれき) 土御門泰邦(つちみかど・やすくに) 1797年 寛政暦(かんせいれき) 高橋至時 (たかはし・よしとき) 1842年 天保暦(てんぽうれき) 高橋景保 (たかはし・かげやす) 1873年 現行の太陽暦[講談社:日本全史 1991 p593、703、716、778、853]
高橋至時の長男が景保、次男は渋川景佑(しぶかわ・かげすけ 1787〜1856 高橋家から渋川家へ養子)で、ともに伊能忠敬の測量に協力しましたが渋川景佑も改暦に尽力しました。
これらの改暦により精度の高い太陰暦(太陰太陽暦)が編纂されてきました。天保暦が最終改訂の位置づけになります。純粋な太陰暦では12ヶ月を1年とした場合、354日となり太陽暦の1年にくらべて11日ほど短くなります。このずれが3年で約1ヶ月となるので約3年に1回、余分な1ヶ月である閏月を挿入してずれを解消しました。閏月の月名は前月の数字の前に「閏」を付けます。たとえば四月のつぎに挿入された閏月は「閏四月」となります。閏月を挿入して1年が13ヶ月になる年のことを閏年といいました。
京都改暦所は1797年の西洋暦法をとりいれた寛政暦作成のとき幕府の命により設置されました。京都西三條台改暦所ともいい1500坪(約5000平方メートル)の用地に幕府の天文台が設けられ高橋至時のほか吉田秀升、山路徳風の天文方が観測と改暦の仕事をしました。設備は子午線儀2台のほか和製望遠鏡もありましたが、これらの観測器は改暦のための作業が終了した後、江戸浅草暦局へ移転されました。また現在の月光稲荷は1839年(天保10)に設置(移設)されました。[渡辺敏夫:日本天文学史スクラップ(6) 天界 第704号 東亜天文学会 1984 p17−20(この文献はわたしの知る限り京都改暦所に関する唯一の文献で東亜文学会の皆さまにたいへんお世話になりました。)]
明治維新後、暦(こよみ)を編集する業務である編暦は引きつづき京都の土御門(つちみかど)家が担当していましたが1870年(明治3)には大学(東京大学の前身)の天文暦道局、のち星学局にかわりました。陰暦(太陰太陽暦)から陽暦(太陽暦)へは1873年(明治6)に改められました。これまでの陰暦、明治5年12月3日は明治6年1月1日になりました。陰暦の12月がわずか2日で終わったのです。それ以降、改暦というのはありませんが暦(こよみ)を編集する業務である編暦は内務省地理局が担当し頒布は神宮司庁が行い、1881年(明治21)に東京天文台が発足後は同天文台で編暦を担当することになりました。1884年(明治24)の暦では月食の記事掲載を失念したため当時の天文台長、寺尾 寿(1855〜1923)が減俸の処分を受けたほどですから極めて重要な業務であったことと推察されます。現在、暦は国立天文台が担当し一般には理科年表などで周知されています。[東京天文台:東京大学東京天文台の百年 東京大学出版会 1978 p53−55][松村巧:近代日本雑学天文史 松村巧 1991 p49−50]
京都円光寺 渾天儀台石
地図:京都西南部
京都市下京区梅小路は旧国鉄の蒸気機関車保存基地として有名ですが、その西北にある西中町、東中町一帯はかっては土御門家(つちみかどけ)の広大な屋敷があり天文台もありました。土御門家は安倍清明の子孫になりますが安倍家は安倍清明(921〜1005)以来、朝廷の陰陽寮の職につき天文や陰陽道をつかさどっていました。16世紀になってから土御門家とも称するようになりました。土御門家は維新後も新政府から暦(こよみ)の頒布利権をあたえられていました。しかし1870年(明治3)には天文台も閉鎖され天文からまったく離れたのですが子爵の称号を贈られました。いまも渾天儀(こんてんぎ)といわれる星の位置を観測する装置の台石が円光寺にまた大表(だいひょう)といわれる日時計の役割をした装置の台石が梅林寺(円光寺の東北筋向い)に残っています。渾天とは天球のことで地球から見えるすべての天体がその上を運行するとみなした仮想の球面です。
右の写真は円光寺に残る渾天儀の台石です。台石は一辺が140センチメートルの正方形で厚さは15センチメートルあります。上面には対角線に溝が2本直交していますが水をいれて水準器としたようです。対角線の端にある4個の穴は渾天儀の架台を固定したものと思われます。この渾天儀は1755年の宝暦の改暦で渋川春海が設計、製作し4本の環と玉衡といわれる望遠鏡の筒から構成されており土御門泰邦(つちみかどやすくに)が使用したものとされています。なお円光寺は戦前、堀川通七条から現在地に移転されたもので土御門家と関係はありません。円光寺の所在地は京都市下京区梅小路東中町1になっています。
浅草司天台跡
地図:東京首部
伊能忠敬が活躍した当時、江戸には浅草司天台という天文台がありました。正式な名称は頒暦所御用屋敷で略して暦局ともいわれていました。これは伊能忠敬の師である高橋至時(たかはし・よしとき)の居所にもなっていました。高橋至時は間重富(はざま・しげとみ 1756〜1816)とともに天文学者(当時は天文学のことを星学といった)である麻田剛立(あさだ・ごうりゅう 1734〜1799)に師事し幕府の天文方になった人です。天文方は1684年(貞亨1)に改暦を機会として設けられ天文観測を本務とし測量、地図作成、暦書和解なども行いました。
浅草司天台は現在の蔵前一丁目交差点付近(都営地下鉄蔵前)にありました。交差点西南角にある1999年に立てられた台東区教育委員会の説明板によると、この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目21〜24番地の全域および19、25,26番地の一部)に1782年(天明2)天文台がおかれましたが1869年(明治2)に新政府によって廃止されました。現在は中小のビルが建て込んだ卸商店街になっており天文台の跡形はありません。
その後、新政府管轄の天文台は1870年(明治3)に大学南校に星学局として設置されました。当時、内務省のお雇いとして英国から来日し三角測量を指導したり、わが国にはじめて地震計を導入したヘンリー・シャボー(綴り英字不明、生没年不明)の提案などによるものです。[日本科学史学会:日本科学技術史大系 第14巻 地球宇宙科学 第一法規出版 1965 p57−61、77]
大阪市天王寺区 麻田剛立の墓所
地図:大阪東南部
麻田剛立(あさだ・ ごうりゅう 1734〜1799)は豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)出身で、もとの姓は綾部でした。独学で医学と天文学を学び1763年に当時の宝暦暦書に載っていない宝暦13年の日食を予言し世に知られるようになりました。1771年(明和8)に大阪にでて医業のかたわら天文の研究をつづけ望遠鏡や反射鏡などの観測器具を改良し理論を実測で確認しました。弟子に高橋至時や間重富らがいます。
墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町の浄春寺にあります。 地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘の 西約300メートルのところです。本堂裏(西)に位置し地上高さ1.6メートルの墓石には「剛立麻田先生之墓」と四面に多くの文字で功績が刻まれています。また墓石の左(南)隣には1967年(昭和42)に顕彰碑が建てられています。
間重富
江戸時代の天文学者、間重富(はざま・しげとみ 1756〜1816 号は長涯)大坂町人で、麻田剛立に弟子入りして天文暦学を研究しました。観測機器の考案に優れ垂揺球儀(振子時計)や測食定分儀(日月食の食分測定器)をはじめとした機器を制作しました。また当時最新の天文学書でケプラーの楕円軌道について紹介した「暦象考成後編」を入手したり精密な観測機器の製作、改良を行ないました。1795(寛政7)年には高橋至時とともに江戸で寛政の改暦事業に従事、寛政暦を作成、改暦後は大坂に戻り幕府御用の天文観測を続けました。屋敷には最新の天文台を設け間家は幕末まで4代にわたり幕府天文方御用で天文観測を行なっています。
大阪市立博物館では「羽間文庫」といわれ間重富の観測資料や高橋至時の「ラランデ暦書管見」、麻田剛立の「弧矢弦論解」などが所蔵されています。
大阪市西区 間重富天体観測の地
地図:大阪西北部
「間長涯天文観測の地碑」は地下鉄長堀鶴見緑地線の西大橋を地上に出た長堀通りの駐輪場西にあります。1960年(昭和35)に大阪市が市政施行70周年を記念して立てたものです。天文台はこの位置より北にあった富田屋橋(とんだやばし)北詰にありました。
大阪市天王寺区 間重富の墓所
地図:大阪東南部
間重富の墓所は大阪市天王寺区茶臼山町の統国寺になっています。天王寺公園の東北に当たり谷町筋から茶臼山に向かって入った突き当たりです。墓碑は本堂奥(西)にあり地上高さ約1.5メートル、「長涯間先生之墓」と刻字があり左の花立には「十一屋間家墓所」、右の花立には「間家」のところが「羽間家」になっています。手前には「贈従五位間五郎兵衛一門墓所」の碑があります。間重富の通称は十一屋五郎兵衛、号は長涯、また羽間(はざま)は現在の姓のようです。間とは関係ありませんが統国寺にはベルリンの壁の残骸が展示されています。
長浜市 国友藤兵衛天体観測の地
地図:長浜
国友藤兵衛(くにとも・とうべえ1778〜1840、号は一貫斎)は江州国友村の出身で国友一族として戦国時代から伝統の鉄砲製造とともに江戸で西洋の文物にふれて近代科学に傾注し天体望遠鏡、距離測定器(町間見積遠眼鏡)などの機器開発につとめました。自作の天体望遠鏡によって太陽の長期間の黒点観測、月面、木星、土星の観測もしています。現在長浜市国友町の一角にモニュメントがあり「国友一貫斎 天体観測創始の地」の標示があります。
国友(くにとも)は、戦国時代から江戸時代末期まで大阪の堺とともに鉄砲生産地で旧近江国坂田郡国友村(現長浜市国友町)と技術集団の「国友鍛冶」をさす語としてもつかわれます。
福島市鎌田 北辰の碑
地図:福島北部
福島市の北部、阿武隈川にかかる鎌田大橋の北西、鎌田字舟戸の諏訪神社本殿南西に「北辰の碑」があります。地上高2.2メートル、直径30センチメートル程度の石碑で刻字はかなり磨耗、剥離していますが、いくらかの文字が読めます。
「北辰の碑」は舟戸の日時計ともいわれ1868年(慶応4)地元の天文学者、板垣儀右衛門(号は能水)が平和を願って建てたもので「赤水図」からこの地の緯度を読み取り北緯38度とし日時計としても使用できるように周囲に文字盤を作りました。碑には「世代ハ皆移リ行ケト此里ヲ安ニ守レ神ノ御柱」(一部推定)と刻まれています。石碑の根元には時刻を表す干支の刻字が僅かに見ることができます。写真の「申」(さる)は今の時刻で午後4時頃に相当します。[作花一志・福江純:歴史を揺るがした星々 恒星社 2006 p137−138]