海洋測量(水路測量)については幕末には幕府の主導により組織的な軍艦操船の教育と測量が行われていました。ペリーが4艘の軍艦で江戸湾に来航したのは1853年(嘉永6)のことですが海岸防備の重要性が認識され幕府は水戸藩に命じ戦艦の建造、砲台の設置、沿岸の測量が実施されました。このとき「内海浅深測量之圖」が完成しています。1854年(安政1)、ペリーが再び浦賀に来航した年、オランダはわが国から帆船、蒸気船の建造依頼を引き受けますが、引き渡し時期が提示できないため、蒸気船スンビン号(400t、観光丸と改名)と、艦長一同を差し向け必要な諸学を伝授しました。1855年(安政2)幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、諸藩から伝習生百数十人を集め、勝海舟(麟太郎、1823〜1899)が生徒監に命ぜられました。測量技術としては六分儀の使用方法、数学などが操船、兵科とともに教えられました。伝習生のなかには佐野常民(1822〜1902 博愛社−日本赤十字社の前身、創立者)、柳楢悦(やなぎ・ならよし 1832〜1891 初代海軍水路部長)、中島三郎助(1821〜1869浦賀奉行与力のとき米モリソン号に砲撃、ペリー艦隊の応対に活躍、箱館戦争で戦死)などが見られます。実務業績としては長崎港の実測があり、これは「崎港測量圖」として旧鍋島藩に伝わる海図に反映していると考えられます。海軍伝習所のオランダ側責任者であったカッテンダイク(W.J.C.Ridder Huyssen van Kattendijke 1816〜1866 オランダ海軍第二次派遣隊司令官として来日、のち海軍大臣)は1858年(安政5)の報告で「幾何、代数、測角、三角法の基礎、航海術、図学を教授した。平板測量にて何人かの伝習生は実習の成果を表した」としています。[横山伊徳:幕末維新期の日本沿海測量と海図作成 「地図中心」395号 日本地図センター 2005.8 p10−12]
1857年(安政4)4月には長崎の海軍伝習所から軍艦を江戸へ廻送し築地に軍艦教授所が設けらました。同年7月軍艦操練所と改称され教授方頭取にはカッテンダイクの評価が高かった矢田堀景蔵(1829〜1887 荒井郁之助の叔父にあたる)が就任しました。当時の伝習生は軍艦操練所での学習とともに私塾と仲間同士の自習も行い洋学の習得に努めました。小野友五郎(おの・ともごろう 1817〜1898)、荒井郁之助(1836〜1909)、甲賀源吾(1839〜1869)らは江戸湾の実測を行い海図「江戸近海海防圖」を作成してます。岩橋新吾(教章、いわさき・のりあき 1832〜1883)らは伊勢、尾張、志摩地方の実測を行っています。この頃、幕府がオランダに発注した新造軍艦ヤパン号(380トン、咸臨丸と改名)が到着します。1860年(安政7)日米修好条約批准のため正使、新見豊前守が搭乗した米軍艦ポーハタン号に随行した咸臨丸では小野友五郎や赤松則良(1841〜1920)が測量に従事しました。また咸臨丸は1861年(文久1)に小笠原諸島の測量につかわれ小野、荒井、甲賀、通訳として中浜(ジョン)万次郎などが乗り組みました。測量成果は「小笠原嶋総圖」としてまとめられています。軍艦操練所は維新後、海軍兵学寮となりのちの海軍兵学校の前身となります。また1864年(元治1)には海軍操練所が兵庫に設けられ、福田半(ふくだ・はん 1849〜1889)らにより大阪湾の実測を行いましたが翌年には廃所されています。荒井、岩崎、福田はいずれも維新以降、陸地測量に移り測量技術の指導者になっています。1859年(安政6)長崎の海軍伝習所は閉鎖されました。[篠原宏:海軍創設史 リプロポート 1986 p53][赤松範一:赤松則良半生談 平凡社 1977 p82−83]
軍艦操練所跡は中央区築地六丁目、隅田川に架かる勝鬨橋(かちどきばし)の手前、晴海通りの西側歩道の車道寄りに中央区教育委員会により説明板が立てられています。
このころ、海軍関連以外に幕府によって設けられた養成機関として洋学所があり後に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)、洋書調所、開成所(維新後は大学南校、東京大学)と改称されましたが初代陸地測量部長となった小菅智淵(こすげ・ともひろ 1832〜1888、幕臣関定考の次男)も筆記方として従事しています。古い幕府の機関としては天文方もあり測量、地図作成も行っていました。さらに1856年(安政3)には諸術調所が箱舘奉行所内に武田斐三郎(成章、たけだ・あやさぶろう 1827〜1880)の主宰で開かれています。これらの諸機関は新技術として測量についても伝習、実務を行っています。[斉藤敏夫、佐藤p、師橋辰夫:明治初期測量史試論 「地図」15巻3号 日本国際地図学会 1977、p3−4]
蕃書調所跡は千代田区九段南一丁目交番西の植込みに説明板が立てられていますが文字が消えかかっています。
荒井郁之助の碑
地図:東京西南部
軍艦操練所の伝習生であった荒井郁之助(1836〜1909)は勝麟太郎の後任として頭取になりましたがその後、海軍から陸軍(講武所)への配置替えになっています。維新後は榎本武揚(1836〜1908 後の外務大臣など)、大鳥圭介(1833〜1911 後の工部大学校校長、学習院院長),小林一知(こばやし・かずとも 1835〜1906)などとともに戊辰(ぼしん)戦争に旧幕府海軍として参戦、敗れ投獄ののち開拓使で北海道の測量、引きつづき1877年(明治10)内務省地理局測量課長に就任しました。このとき前任者は小林一知でした。荒井は地理局で三角測量に多大の成果をあげました。1890年(明治23)地理局に中央気象台が設置され荒井は初代台長に就任し翌年、小林が2代目台長になりました。[原田朗:荒井郁之助 吉川弘文館 1994 p225]
小林一知は咸臨丸艦長でした。戊辰戦争で北走の際、台風に遭遇し伊豆方面に流されましたが新政府軍は追跡し咸臨丸を襲いました。小林は下船中で水夫数人が死亡、逆賊として放置されていた屍を地元の侠客山本長五郎(清水次郎長)が集めて松の古木の下に葬ったということです。咸臨丸はのち開拓使の輸送船になりましたが1871年(明治4)、木古内沖で暴風雨により遭難沈没しました。
JR恵比寿から渋谷橋を渡り明治通りを広尾へ10分ほど歩くと北側に祥雲寺の小さな入口があります。この入口を通りすこし進むと山門が現れますが山門をくぐったところにある鐘楼の前に徳川家達(とくがわ・いえさと 1863〜1940)篆額の「荒井君碑」が1915年(大正4)に建てられており碑文には「十年再奉職内務省地理局剏全國三角測量尋遷」と全国三角測量をおこなった業績も記されています。この寺院の墓地にある黒田長政はじめ福岡藩黒田家などの墓の北高台に荒井の墓があり墓石には「荒井郁之助 配 松本氏 天保七年四月廿九日生 明治四十二年七月十九日没」と刻まれています。「配」は配偶者である夫人のとみ子、「松本氏」はとみ子が幕府医官、松本良甫の養女であったことによるものと思われます。
甲賀源吾の碑
地図:東京首部
軍艦操練所の伝習生であり測量数学の教授もした甲賀源吾(1839〜1869)は戊辰(ぼしん)戦争(箱館戦争)の際、榎本武揚、荒井郁之助らとともに新政府軍と戦い、1869年(明治2)3月宮古湾の戦いで官軍の甲鉄艦「春日」を奪おうとして総司令官荒井郁之助のもと甲賀自ら操縦する「回天」号で接舷戦を試み戦死しました。このとき土方歳三(1835〜1869 新撰組副長)を総督とした陸兵も乗り込んでいました。荒井、土方はともに生還、「回天」は荒井自らが操船し箱館に入港しその後、新政府軍と戦いましたが海陸両方から攻められ遂に船内に放火し乗組員は五稜郭に引き上げました。
1931年(昭和6)に建てられた甲賀の墓碑によると当時新政府軍の三等士官として「春日」に乗り組んでいた、後の連合艦隊司令長官、東郷平八郎(1847〜1934)が「甲賀源吾ハ賊ナカラモ六十年後ノ今日ニ至ルマテ私ノ嘆賞措ク能ハサル勇士ナリ」と賞賛しています。東京本郷駒込団子坂通りに駒込大観音と呼ばれる光源寺があります。地下鉄南北線本駒込から東へ徒歩5分のところです。光源寺には墓地の最奥に甲賀家の墓と入口近くに甲賀源吾の碑がありますが、この碑は第二次大戦末期に米軍の焼夷弾が命中し二つに折れてしまい上半分だけ横にひびの入った状態で残置されています。いまでも地元の人たちの間では甲賀が楯になって助けてもらったと言い伝えられています。[2006.11.8 光源寺談]
軍艦操練所で学んだ新島襄は異色の存在です。1864年(元治1)米国へ脱出しキリスト教精神にもとづく教育に専念し測量の実務とは関係が薄かったのですが測量学を学んだ一端を知ることができます。同志社の創立者、新島襄(1843〜1890)は1860年(万延1)軍艦操練所にかよい数学、航海術を学んでいます。教科目は数学、測量、航海、機関、築城、砲術などでした。新島は安中藩家老職の横井三右衛門の推挙により軍艦操練所に派遣されましたが横井家老の子息から新島と同郷(安中)の根岸橘三郎へあてた書簡では
当時幕府は築地に御軍船練習所を置き、各藩の有志をも紹介して、海軍の修練を講せしめし時に、新島氏も安中藩より練習生に入学し、氏は数学に於て(数学専門を主とせり)大に上達し、測量械を使用する程度に至り候[根岸橘三郎:新島襄 警醒社 1923、p109、p188]
とあり測量に通じていたことを伺わせます。なお根岸文献によれば新島は1857年(安政4)に創立早々第一期生として入学し1860年(安政7)まで満3年間修業したことになっていますが新島襄全集(同志社による新島の正史か)では1860年(万延1)入学、1862年(文久2)退所)と異なっています。[新島襄編集委員会:新島襄全集8 年譜編 同朋舎出版 1992 p16]
新島は1862年(文久2)眼病と不眠症のため軍艦教授所を退所し甲賀源吾の塾に入門して洋学を継続しています。同志社に残る新島の数学ノート(同志社社史資料室蔵)に「天下英雄甲賀源吾」と落書きがありますが、この時期のものです。
神戸の海軍操練所跡
地図:神戸首部
1864年(元治1)から一時、海軍操練所が兵庫(神戸)に設けられました。勝海舟が当時の将軍、徳川家茂に海軍の必要性を説き、この地に建設されました。造船所を備えた大規模なもので生徒も全国から募集しました。しかし一部の生徒が、この年の7月に起きた蛤御門の変で幕府側と戦い、勝も幕府の嫌疑を受け翌1865年(元治2)に廃止になりました。
神戸市中央区新港町17の京橋交差点南東(地形図:神戸首部)には海軍操練所の記念碑があります。高さ3メートル程度の碇(いかり)と書籍の形をした石碑で1968年(昭和43)に建てられています。またこの近く、京橋から海岸通りを西へ徒歩5分程度の神戸水上警察署の西にある「みなと公園」という広場には高さ2.5メートル程度の碑がありますが勝海舟の筆になる「海軍営之碑」を模したもので1973年(昭和48)に建てられたものです。