明治の新政府は1869年(明治2)北海道に開拓使を設置し開拓事業を開始しましたが当時、開拓史次官の黒田清隆(1840〜1900)は米国に渡りグラント大統領の承諾を得て農務長官のケプロン(Horace Capron 1804〜1885)が招聘され1871年(明治4)開拓使顧問として来日しました。ケプロンは開拓事業の計画と東京に設置する開拓使仮学校における指導者(米国人)の人選を行い、さらにインフラ整備のため測量を最重要課題として位置づけ、地質調査についてはライマン(Benj.S.Lyman)をまた測量についてはワフィールド(A.G.Warfield)、ワッソン(James R. Wasson)などが招聘され開拓使お雇いとして採用されました。当時、開拓使からの年給はケプロン1万ドル、ワフィールド6千ドル、ワッソン4千ドルという高額だったようです。主要な市街、河川、海岸線、港湾などの測量は1873年(明治6)から開拓使測量課によって行われました。このときワッソンを測量長、デイ(Murray S. Day)を助手とし荒井郁之助(旧幕府の要人)、関大之、奈佐栄、水野秋尾(ともに後に陸地測量部勤務)、福士成豊なども従事しました。翌年にはワッソンが転属帰国しデイが昇格しました。
1875年(明治8)から本格的な三角測量が全北海道にわたって実施されました。原点は函館の三角点で天文観測によりその経緯度を求め、また基線はワッソンの当初計画であった石狩川上流では見通し距離が得られず勇払の主基線と函館の補助基線の計2ヶ所設置されました。三角点は約50点設置されたほか天文観測により約30点の位置が求められました。この作業による三角網は1876年(明治9)には全道のほぼ5分の2の面積を覆い一応の成果を得ることができ同年デイは報告書「1875年の北海道三角測量」を米国で出版し、開拓長官黒田清隆に報告しています。この報告書は和訳され開拓使からも翌年出版されています。[Murray S. Day: Report of the Trigonometrical Survey of the Island of Hokkaido for 1875 Francis Hart & Co. New York 1876 国立国会図書館蔵][渡辺光:勇払基線および函館助基線の地図学的意義 「地図」16巻4号 日本国際地図学会 1978 p13][大蔵省:開拓使事業報告第一編 1885 p297−337]
下の写真はデイが率いる開拓使測量隊の札幌出発時のものです。北海道大学附属図書館北方資料室のご好意により掲載の承認を得ました。転載はできませんのでご留意ください。
勇払基線跡
地図:勇払
勇払基線は1873年(明治6)に北海道南部の勇払原野に設置され、現苫小牧市勇払と鵡川(むかわ)町の14.9キロメートル(3回の測定平均値は14,860.26461959メートル)にわたっています。勇払の基標は1962年(昭和37)残存している一部が発見され、その後史跡として保存されていますが鵡川の基標はまだ発見されていません。[大石雅二、中村齋、関秀志、野村崇:開拓使三角測量函館基線調査報告 「北海道開拓記念館調査報告」4号 1973 p25−52]
勇払の基線跡はJR勇払の東500メートルの苫小牧市立勇払中学校の裏、国道沿いにあり「勇払ふるさと公園」になっています。遺跡である一辺17メートル、高さ90センチメートルの盛土上にピラミッド状モニュメントが設けてあり、そのガラス窓ごしに30センチメートル四方で中央に金属指標が打ち込まれた基標地中部分の石盤が見えます。外部には勇払基線の鵡川方向を示す矢印の標示があります。また三角柱石には「北海道指定文化財史跡 開拓使三角測量勇払基点」「北海道教育委員会・苫小牧市教育委員会」「指定 昭和四十二年三月十七日 建設平成十一年九月二十八日」と各面に刻字があります。
実物で残存しているのはピラミッド内の地中標だけですが地上標は想定復元したものが苫小牧測量設計業協会の寄贈で設置されています。大野町一本木にある函館助基線の標石をモデルにしたものです。
正確な基線測量は米国から導入したヒルガード測かん(金へんに旱と書く)をつかいました。米国測量局のJ.E.ヒルガードが考案した基線測量用の物差しでヒルガード基線尺とも四米突鋼かん基線尺ともいいます。この基線尺は1878年(明治11)には内務省が那須西原に設置した那須基線の測量でもつかっています。
函館助基線跡
地図:函館
この基線は1875年(明治8)に設置されました。デイの報文ではsubsidiary base-lineになっているので補助という意味で函館助基線と訳され、またワッソンの報文ではbase of verificationになっており検査、検証の意味で函館検基線と訳されたようです。いずれにしても勇払基線から延伸した三角網の辺長の検証をし、誤差の拡大を防ぐために先に設置した基線になります。函館助基線の東端は現函館市田家町(たやちょう、旧亀田村)で西端は現大野町一本木にあたり全長8キロメートルあります。
東端の亀田村基標は1968年(昭和43)函館市田家町の大称寺で見つけられました。五稜郭の東1キロメートルの地点です。地上標と地中標はばらばらで墓地などに放置されていたようです。現在、地中標は札幌市の北海道開拓記念館に収蔵番号095753で実物が保存されおり同館のご好意により許可を得て撮影しました。標石の大きさは一辺30、高さ65センチメートルの角柱で上面には「亀田村ニ於テ 明治八年十一月十三日 北海道開拓使測量○○ 福士成○ ○○」の刻字がありますが、浅い彫りで磨耗しているのか○のところは判読不能です。中央には直径3センチメートルの金属指標があります。
地上標のほうは以前は墓地にあったそうですが現在、所在は不明です。函館市立博物館、大称寺住職にも尋ねましたがわかりません。大称寺境内には1メートル角の石盤モニュメントが置かれており「北海道開拓使測量基標 亀田村基標跡」「測量基標建設年月日 明治8年11月13日 亀田村基標跡建設年月日 昭和46年3月24日」と刻字されています。この位置は標石現物が発見された場所ではありません。
西端の一本木基標はJR久根別の北1キロメートルの地点で大野町一本木神社の裏にあります。この存在は以前から知られていましたが地元では墓石と思われていたようです。地上標地中標とも現地で完全に保存されています。標石の右にある説明板には「北海道三角測量函館検基線西側標石 大野町指定文化財 平成6年5月9日 所在地亀田郡大野町一本木131番地の9」などと刻字されています。この標石は2004年(平成16)9月、北海道指定文化財史跡に決定されました。
地上標は下辺40、上辺30センチメートル、高さ1メートルの角錐で全面に刻字は見当たりません。地中標は地上標の下敷きになっているので見えませんが札幌の北海道開拓の村にある福士成豊旧宅内部に上面の拓本があります。同村の許可を得て撮影しましたが「一本木村ニ於テ 明治八年十一月廿二日 北海道開拓使測量基標 福士成豊 建之」の刻字が読めます。またこの展示と同場所に一本木基標でつかわれた測標(やぐら)の基礎部があります。現地で発掘されたもので朽ちてばらばらになっています。
デイの報文では函館助基線の設置責任者は村田千万太郎(むらた・ちまたろう)になっていますが標石が埋設された時点ではデイは離任し福士が総括責任者となっていることから地中標には福士の名前が刻字されたものと思われます。[高倉新一郎:明治以後の北海道測量史 「北方文化研究報告」18輯 北海道大学北方文化研究室 1963 p16]
測標(やぐら)の構造はデイの報文でも見られますが大野町郷土資料室(大野小学校敷地内)では、その精巧な模型(縮尺6分の1程度)があります。同資料室のご好意により撮影しました。模型のそばには同町の「いろはがるた」の一枚「《そ》測量の 起点は我が町 一本木」が展示されていました。
福士成豊
地図:野幌
福士成豊(ふくし・なりとよ 1838〜1922)は函館奉行の船大工見習いを経て1869年(明治2)開拓使に英語通訳として奉職、1873年(明治6)から渡島方面、千島方面の測量に従事、その後、開拓使お雇いの米国人デイの任期切れにともない北海道測量の責任者になりましたが測量だけでなく気象、港湾工事でも功績を残しました。津軽海峡が動物分布の境界とするブラキストンラインで知られる英国人ブラキストンとも交流があり、また1863年(元治1)には、のちの同志社創立者、新島襄を米国船に仲介し密航させ新島の終生の友であったことでも有名です。1891年(明治24)函館港湾の測量調査を最後に開拓使に替り設置された北海道庁を退職し1922年(大正11)84歳で死去、墓所は新撰組の屯所でもあった函館市舟見町の称名寺にあります。[高倉新一郎、関秀志、笹木義友、門崎允昭:幕末維新期における欧米科学技術の摂取について 福士成豊を中心に 「北海道開拓記念館研究年報」第14号 北海道開拓記念館 1986 p45−65][上西勝也:福士成豊と北海道の地形測量 「新島研究」96号 同志社大学同志社社史資料センター 2005 p181−210]
北海道開拓の村にある福士成豊旧宅は明治中期から大正にかけ札幌で居住され日本建築に洋式の研究室を加えたものです。洋式の部分は元札幌病院の診療室で福士が払い下げてもらったそうです。[高橋一雄編:福士博士還暦祝賀記念誌 福士博士還暦記念出版部 1942 p1263 福士博士とあるのは福士成豊の後嗣(あとつぎ)、福士勝成元日本医科大学教授]
ワッソン、デイ、荒井、福士などによる開拓使の測量は全道図は未完であったものの、技術は多方面に大いに利用され北海道測量史上だけでなくわが国の測量史上重要な意義をもっています。1882年(明治15)に開拓使は廃止され函館、札幌、根室の3県が設置され行政は分割され福士も札幌県二等属に任ぜられました。開拓とインフラ整備のための測量はますます重大になってきましたが3県の大蔵卿への予算要求にもかかわらず基本測量を継続するには及ばなかったのです。
1883年(明治16)内務省地理局長桜井勉(1843〜1931、但馬出石藩出身)の来道にあわせ福士は視察に随行しましたが道内地図が不完全なことを示し、その結果、翌1884年(明治17)には内務七等属高橋不二雄が派遣されました。高橋は製図が本務であり測量の経験は少なく、福士が請われ石狩川はじめ河川の水源を調査し、内陸を測量しています。北海道は引きつづき1886年(明治19)3県を廃して北海道庁が設置され福士も道庁一等技手として土木課に勤務、開発が本格化し初代長官岩村通俊(いわむら・みちとし 1840〜1915)により開拓使時代に中断された地形測量も再開されました。この事業を再開するにあたっての最大の難関は習熟した測量技術者を得ることでしたが、とりあえず旧札幌、函館の2県での測量経験者、16名を集め福士を総責任者として着手しました。
1887年(明治20)には既に50歳を迎えた福士にかわり北海道庁技師阿曽沼次郎(あそぬま・じろう 1850〜1916)が事業を総括することになりました。阿曽沼は1870年(明治3)慶応義塾に入学、英語、測量術を学び内務省測量技手として全国三角測量に従事して北海道庁に転じた技術者で自ら率先してこの難関にあたりました。1896年(明治29)刊行の「北海道地形圖」で一応の完成をみましたが、未測量の部分もあり、まだ精密さに欠けていました。これ以降は参謀本部陸地測量部へ引き継がれ1900年(明治33)に北海道の一等三角測量、一等水準測量が開始され全国統一された方法で地形測量が実施されることになります。