1874年(明治7)内務省地理寮が設置され工部省と大蔵省の業務を引継ぎ「量地條例綱領」地図測量の方針が明らかにされました。1876年(明治9)に制定された量地條例綱領ではその前文に測量は国を治める根本であり一大事業であること、伊能忠敬の測量では実用に適さないこともあり各地の境界、高低を測量し諸工事、兵事に役立つ地図を調整することを目的としています。本文では三角測量について一等大三角法、二、三等三角法の定義、水準測量として一、二、三等高低綱紀測量の定義があります。[内務省地理局:例規類纂 量地條例綱領 明治九年五月三日 1884(復刻版 橘書院 1981 p111−116)]
また地理寮施業の測量には全国測量、要地測量と臨時測量の3種類があり全国測量は全国一等三角測量である関八州大三角測量(のち全国三角測量)で国全体の地図を作成する目的があり、要地測量は東京、大阪、京都などの主要都市、主要港の測量、また臨時測量は神奈川県下外国人遊歩規程や府、県間の境界測量などローカルで一時的な測量になっています。[内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p590]
1877年(明治10)地理寮が改称され地理局が発足し「関八州三角測量」(のちに「全国三角測量」)を行いましたが1884年(明治17)には地理局の測量業務は参謀本部測量局に統合吸収されました。
都市の測量
都市の測量は工部省によって1872年(明治5)、東京の三角測量からはじまります。当時は測量のほとんどがお雇い外国人の主導で行われ、わが国独自に実施のきざしを見せたのは工部省測量司によって外国製の経緯儀を購入した1873年(明治6)頃からです。1874年(明治7)、内務省地理寮が設置され工部省の業務を引継ぎ、東京についで当時の大都市、港湾都市、鎮台であった大阪、京都(西京ともよばれていました)、函館、新潟、横浜、神戸、長崎、仙台、名古屋、広島、熊本などで測量が実施されています。しかしこの測量も当初はお雇い外国人の指導によっています。その後、内務省地理寮、地理局による関八州大三角測量さらに全国大三角測量となり参謀本部の一等三角測量に発展していきました。内務省の測點については1874年(明治7)の内務省達乙第三十二號(明治7年4月27日)「測量司石製標柱建設」で形状や大きさが例示されています。一辺30センチメートルの角柱で地上30センチメートル、地下90センチメートルとなっていますが、そのとおり、ぴったり当てはまる標石をわたしはまだ見あたりません。
東京の測量
1871年(明治4)、地図測量のため設置された工部省ではお雇い英国人マクヴィーン、ジョイネルなどによって英国式測量技術が指導されました。東京の測量は1872年(明治5)工部省工学寮所属の測量司が江戸城富士見櫓、芝愛宕山など東京府下に13ヶ所に三角点を設置し小規模の三角測量が実施されました。
五年三月師長 マクウエン ノ指按ニ由リ東京府下ニ三角測量ヲ施行セシム、仍テ其第一着手トシテ富士見櫓ニ大標旗ヲ建テ府下測量ノ基礎タルヲ示セリ (中略) 又府下内外ニ順次三角點十三所ヲ撰ミ高測櫓ヲ起シ一條ノ基線ヲ越中島須崎弁天ノ間ニ撰ミ鋼鉄尺ヲ以テ之ヲ測ル、工部少輔等臨観ス而シテ十三所ノ測點ハ即、富士見櫓、越中島須崎辨天、本所一ツ目、同三ツ目、芝愛宕山 上野下寺町、目白台、宮益町、寺島村、田端村、戸越村、第二臺場等ナリ、此建築費平均一ヶ所金弐百六拾四円三十一銭強トス [館潔彦:洋式日本測量野史 三交會誌 第二十號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p213]
「マクウエン」はマクヴィーン(Colin Alexander Mc Vean)と表記されている文献もあります。1871年(明治4)から工部省測量司の御雇い英国人です。当時の三角網図は国立公文書館蔵の「三府及横濱三角網素圖」のうち「東京三角網素圖」としてあります。2000フィート=1インチのスケールで「明治八年十二月 御雇英人ヱー、ゼー、クレースン ゼー、アール、チースメン謹測」とあり原点と天測点は赤羽と御殿山に設置されたことがわかります。また13ヶ所の測点は「Castle 城、Ichujima 越中島、Benten 辨天、H'totsumi 一ッ目、Mitsumi 三ッ目、Atagoyama 愛宕山、Uyeno 上野、Mejiro no fudo 目白不動、Aoiyama 青山、Terajima 寺島、Kamitabita 上田畑、Togoemura 戸越村、Fort 臺場」の表記になっています。越中島と洲崎弁天間に基線が設定されています。クレースンとチースメン(Chiesmen)はともに1872年(明治5)から工部省測量司(のち内務省地理寮)のお雇い(測量助役)英国人です。
1871年(明治4)に設置された測量司は1874年(明治7)には内務省に転属し初期の越中島・洲崎間の基線(現江東区)を本所一ッ目・三ッ目間(現墨田区)に移し改測が行われました。
本所一ツ目ノ如キハ丁字形ノ街頭ニ跨カリシヲ以テ、凡三年間車馬ノ通行ヲ絶チ行人ハ終ニ軒下ヲ歩行シ、此近ノ商店ハ殆ト休業ノ體ナリシ報知新聞諷シテ曰ク測量櫓ノ助嗚呼倦勞(クタビレタ)セリト...
[館潔彦:洋式日本測量野史 三交會誌 第二十一號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p279]
1876年(明治9)には「三角點」が26点増設され初期設置分13点と合わせると計39点になり、「附属豫備點」も74点設置されました。さらに「次三角點」ともいわれる「補助點」が55点、「聯測接合點」が22点設置され再度改測が行われ1880年(明治13)に東京の三角測量は完成しました。三角點、補助點、聯測接合點それぞれの位置と附属豫備點については当該三角點に対して個数のみが1883年(明治16)内務省地理局測量課から東京府土木課あての文書に明記され、また標石の寸法図が添付されています。上面30センチメートル角、下面60センチメートル角の角錐柱、補助点は上面24センチメートル角、下面45センチメートル角の角錐柱になっています。[東京都:東京市史稿市街篇第67号 1975 p672]
内務省第二回年報によれば1876年(明治9)7月以降の三角点などの設置点数は「三角測点」13点、補助点12点、細形測点987点になっており東京市史稿の数字とことなります。またこの時点で几号高低標が31ヶ所に附刻され「綱紀高低測量」が行なわれたことになっています。[内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p438]
附属豫備點は本点に事故があれば復元するために本点を見通す道路上に設置され、聯測接合點は内務省が別途行った小区分の地図測量と接合するため設置されたようです。[佐藤p:内務省地理局の東京地区三角点 「古地図研究」通巻53号 日本地図資料協会 1974.7(百号記念論文復刻 1978 p474)]
当時、設置された三角点標石の一つは戦前には三田綱町の旧福沢邸(のち仁礼邸)に残存しており、当時わが国で最古の三角点とされていましたが現在は不明です。[高木菊三郎:三角点の標識と標石の思い出「測量」日本測量協会 1959.3 p16]
工部省、内務省による東京の三角測量は1886年(明治19)以降の内務省地理局発行の五千分一図が直接の成果であり、つづく参謀本部陸軍部測量局の五千分一図もこれにもとづいています。江戸城の富士見櫓は基点となるもので、ここが本初子午線の扱いとなっています。[清水靖夫:内務省地理局「東京実測全図」について 「地図」6巻3号 日本国際地図学会 1968 p1]
江戸城天守台跡の測点
地図:東京首部
1999年(平成11)角田篤彦さんによって発見された皇居東御苑内の江戸城天守台跡の標石は最古の三角点ではないかといわれていますが設置年や目的など裏付ける文献では確認されていません。[山岡光治:日本で最初の三角点標石?を発見 「測量」日本測量協会 2000.4 p33]
皇居東御苑は一般に公開されており入場はできるのですが保護柵がいたるところにあり思うようには探索できません。この標石は江戸城天守台跡展望台の登り口左(西)側の桜の木の下にあり保護柵内で近づけませんが標石表面に対角線×のしるしが彫られているのがわかります。
文献によれば24センチメートル角の錐形で、もともと500メートル南の富士見櫓に1872年(明治5)に設置された三角点が移設されたのではないか、それも本点ではなく予備点(補助点)ではないかといった説があるようです。
しかし1902年(明治35)に陸地測量部が東京の三、四等三角測量の際に富士見櫓の三角点を調査したところ三角点の位置は屋根の中心で「探求點」(予備点か)が3ヶ所発見されましたが、それらはこの写真の標石の位置(天守台)ではありません。[いそのかみ:枯木集 思い出 「三交會誌」二十六号 陸地測量部 1916 p26−28]
この測点の素性については富士見櫓に設置された三角点の関係でいろいろ考えられますが、内務省地理局の三角測量では江戸城天守台が原点として選ばれ1882年(明治15)内務卿が天守台本丸の緯度経度の測定結果を各府県に告示したという記録もあるので、そのときの測点かもしれません。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p41]
東京愛宕山の測点跡
地図:東京南部
港区愛宕山には現行の三等三角点「愛宕山」5339−36−9001があり1902年(明治35)設置された初期の点の記を見ると備考欄に
標石埋定ニハ盤石ヲ用ヒス旧内務省測点ヲ代用シ其中心ヲ一致セシメタリ但シ標石ハ切断シタリ [陸地測量部:三等三角點ノ記 1902]
とあり、また現行の点の記では1987年(昭和62)に「旧位置の南東方約9mへ移転」
とあります。また移転当時の国土地理院関係者によれば旧盤石は愛宕神社の池中に残置したとのことです。池の畔にある藤棚の下で眼を凝らして水中をみると左手2メートルほど先に加工された台形状の石があり上下二段で上部は30、下部は40センチメートル、厚さは全体で40センチメートル程度に見えます。ちょうど現行三角点から北西9メートルの地点で、これが1872年(明治5)に工部省測量司の設置した三角点の残骸と思われます。
横浜の測量
横浜の測量は東京に引きつづき行なわれました。当時の三角網図は国立公文書館蔵の「三府及横濱三角網素圖」のうち「横浜港三角網素圖」としてあります。一万五千分の一のスケールで「明治八年五月 地理三等大技師小林一知 地理二等大技手 宮崎正謙 地理二等中技手 袖岡正身 謹測」とあります。この三角網図のなかには「A」から「U」までの記号がついた21ヶ所の三角点があり「F」点は「佛陣営標旗」と併記されていることから当時のフランス公使館と思われます。また21ヶ所の三角点のほか「神奈川県廳標旗」、1874年(明治7)金星太陽面通過時のメキシコ隊観測地点であった「メキシコ人觀象点」などが測量地点となっていることがわかります。なお内務省第一回年報では1874年(明治7)12月に16ヶ所の測点が選定されたことになっています。しかし残念ながら、これらの測量標石は現在では行方不明になっています。[内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p596]
この測量の成果は1881年(明治14)に内務省地理局から五千分の一「横濱實測圖」が発行されています。この地図には「三角點」と「高低几號」(水準点)が明示され表紙には凡例とともにつぎのように記されています。
本圖ノ實測ハ主任小林一知及ヒ技員數名ノ手ニ成ル明治七年十二月ヲ以テ業ヲ起シ八年十月故アリ中止ス十年十二月再ヒ之ニ従事シ十一年十一月始テ完了ス其區畫ノ内部ノ如キハ神奈川縣丈量圖ニ據テ間々補填スル所アリ 明治十四年二月 [内務省地理局測量課:横濱實測圖 1881]
小林一知は江戸末期の水路測量のところで説明したように、かつての咸臨丸最後の艦長で後ほど地理局に設置された中央気象台の2代目台長になっています。
京都の測量
内務省による京都の測量は1874年(明治7)にはじめられました。内務省年報にはつぎの記録が残されています。
西京三角測量ヲ起業セシハ明治七年八月ナリ當時御傭英人ヲ主任トシ當寮技員之ニ副ヒ先ツ洛西ニ於テ一條ノ底線ヲ定メ二十三箇所ノ測點ヲ撰ミ測角中八年五月該英人ノ傭期満チ解職セシテ以テ之レニ代ルニ我技員ヲ以テシ大阪測量主任御傭英人ヲシテ之レヲ監視セシメ直チニ前業ヲ繼キ詳ニ諸點ノ角度ヲ測リ精シク毎點ノ距離ヲ算シ加フルニ吉田山ニ於テ眞子午線ヲ實驗シ終ニ一三角網圖ヲ製シテ該業ノ結果ヲ奏セシハ是年十一月ニ在リ [内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p592]
内務省第一回年報にある「御傭英人」は1872年(明治5)に採用された工部省測量司(のち内務省地理寮)のお雇い英国人マカーサー(McArthur)です。当時の測量成果として国立公文書館蔵の「三府及横濱三角網素圖」のうち「京都三角網素圖」を見る機会を得ました。スケールは一万五千分の一で明治八年十月 地理三等大技手淺野永好 地理二等中技手伊藤鉞五郎 地理二等少技手梨羽時起 謹測、DAIAGRAM OF THE TRIANGULATION OF KIOTO 1875 とあります。
梨羽時起(なしば・ときおき 1850〜1928 山口県萩出身 のち海軍中将)は1879年(明治12)わが国の測量史上初めて3千メートル級の高峰である赤石岳に登山をしています。選点の予備調査と思われます。[前澤政雄:赤石荒川其の他に就いて「山岳」第21年3号 日本山岳会 1927 p68(文中の梨羽晴起は梨羽時起の間違い)] [山崎安治:日本登山史 白水社 1969 p152][梨羽時春:曽祖父、梨羽時起のこと「山」No.761 日本山岳会 2008.10 p11]
梨羽は1880年(明治13)、海軍に転じ日露戦争当時は海軍少将、旅順口封鎖第一戦隊司令官として東郷平八郎司令長官のもとで活躍しています。梨羽の座乗する旗艦「初瀬」が旅順港外を哨戒中ロシア軍が敷設した機雷に触れ浸水、巡洋艦「笠置」が曳航中に再度、触雷し火薬庫に誘爆したため数分で沈没、多数の死亡者が出ましたが梨羽は救助されました。このことは司馬遼太郎の著書にも詳しく記述されています。[司馬遼太郎:坂の上の雲 文春文庫 1973 第3巻p352、360][朝日新聞社: 日本歴史人物事典 1994 p1231]
「京都三角網素圖」によると清水寺や六角堂など27ヶ所に三角点があったことがわかります。ただし当時の三角網図では標石が設けてあるかどうかは図面ではわかりません。清水寺に残る「測點」は刻字されているのも「明治八年」ですからこの三角網図の標石であると思われます。わたしは、この27ヶの三角点設置位置周辺を3年がかりで調査しましたが清水寺以外に標石は見つかりません。吉田山では×印のある標石が見つかりましたが内務省のものかどうか確証はありません。東寺や八坂の塔は先端をそのまま三角点として利用され、他の地点も都市化がすすみ埋没または撤去されたものと思われます。また当時、測量官が京都御所に立入る必要があり内務卿から太政大臣をへて京都府へ支障なく取り計らうよう下達がありました。これには標旗の設置については記述がありますが標石のことは触れられていません。「京都三角網素圖」には京都御所にも三角点がありますが標石は設置されなかったのかもしれません。[太政官:京都御所内ヘ測量官員立入伺 公文録 明治7年九月 内務省伺(二) 1874]
内務省による京都の三角測量は、その成果としての地図は、どのような理由か発行されていません。しかし1881年(明治14)琵琶湖疎水の建設測量に際して当時の成果を利用されたことが記録されています。
明治七八年ノ交内務省地理局ニ於テ京都市街ヲ測量セラレシ三角諸點ノ内下京區第八組分木町ト愛宕郡聖護院村トニ在ル三千七百六十二尺九寸一分零八ナル両三角測量點ヲ假用シ之ヲ基線トナシ... [京都市参事會:琵琶湖疎水要誌巻三 1890 p12−13]
また1881年(明治14)から1883年(明治16)に内務省地理局による「補測」があったことが記録されています。[内務省:内務省年報 明治十四、十六年報告書 (復刻版 三一書房 1984 p10、p81)]
清水寺の測點
地図:京都東南部
清水寺の入口には仁王門と呼ばれている大きな建造物があります。標石は向かって左下(北側)の基壇前にあります。標石の頭部が20センチメートルほど露出しており「地理寮」の文字も「地理」というところまでは現れていたのですが、わたしも50年間、京都に住んでいながら気づきませんでした。
ところが仁王門の修理工事にともない2000年(平成12)3月、国土地理院近畿地方測量部により、この標石が発掘されました。今回の発掘後、清水寺の談話として地元の新聞につぎのように載っていました。
何の石か分からず「仁王さんのへそ石」とも呼ばれていた。寺ということで開発される可能性も少なく、眺望もいいので、この場所が基準点に選ばれたのだろう。表示標は元の位置に戻して保存したい。 [京都新聞:仁王さんのへそ石 2000年11月7日版]
わたしは清水寺におことわりし工事中の現場で京都府教育委員会文化財保護課のお許しを得て見せていただきました。標石は花崗岩で3個の部分から構成されています。まず地理寮などの名称が刻字された標石が最上部にありました。角柱で頭部は錐形です。西面には「測點」南面には「地理寮」東面には「明治八年」北面には「明治十五年八月建 地理局」と刻字があります。四角柱は横一辺25センチメートルの正方形で高さは38センチメートルあり頂部は高さ3センチメートルの四角錘です。
ついで、この標石の下には最下層の標石上部を保護するためと思われる蓋石(平らな石)がありました。一辺46センチメートルの正方形、厚さ12センチメートル程度あります。中が窪んでおり下部の標石と直接接触しないようになっています。
最深部は上部平面対角線に×しるしが彫られた角錐形の標石です。上部平面は一辺15センチメートルの正方形、底面は40×30センチメートルの長方形で高さは50センチメートルあります。文字は何も彫られていません。
標石は全体が地中80センチメートル程度埋まっていましたが、発掘時には底部に深さ50センチメートル、直径7センチメートル程度の穴が4本ありました。発掘の後日、穴がふさがれるのを防ぐため、とりあえず新聞紙がまるめて入れてあります。もし基礎を補強するために木杭が打ち込まれたとすれば、その残骸はあるはずですが空洞になっています。この穴の目的はわかりません。
標石が三段重ねで埋まっていたのは発掘時に立ち会った文化財保護課の人からわたしが直接聞いた話で、はじめて知り後日、復元組み立てをしていただきました。
最上部の標石には1874年(明治7)に発足した地理寮と1877年(明治10)に改称された地理局の両方の文字が彫られているので1875年(明治8)に設置され、その後改埋されたものか、あるいは標石だけ既製品としてあらかじめ地理寮の名前入りでつくられており地理局になってから設置されたものかいずれかでしょう。
この清水寺の発掘は2000年9月には「国土地理院広報」で公表されました。これによると最下部の×印の標石の設置時期と最上部の標石(仮称、表示標)に地理寮と地理局の両方が刻字されている理由としてつぎのように記載されています。
標石の設置は地理寮が測量時の明治8年(1875)頃に行い、地理寮が地理局に改編された後、明治16年まで実測していたことが記録されていることから表示標の設置は地理局が1882年(明治15)8月に設置し、この時に測量の経緯を記録するために組織名を併記したと推測されます。 [中野博美、徳永和典:清水寺で内務省地理寮の基準点が発見される「国土地理院広報」 387号 2000.9 p7]
この報告のように表示標はその刻字にもあるとおり1882年(明治15)に設置されたことは間違いないでしょうが地中の本体までが同時に設置されたかどうか不明です。当初は見通しのきく清水寺の五重塔が三角測量の偏心点とし観測され、のちに本点の位置に表示標が設置されたのかも知れません。
仁王門の改修工事は2003年(平成15)末までかかりましたが、それまでに発掘された標石は元どおりに埋設されています。ただし後年の破損、分解を防ぐため最上部の標石と蓋石はボルトで固定され、さらに一辺56センチメートルの正方形、地上高さ6センチメートルの新設基盤の上に載せられました。また埋設地点近くには国土地理院により説明板が設置されました。
国土地理院により設置された説明板には英国の技術を導入して京都市街地図を作成するために設置された基準点であること、標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準であること、清水寺からは高瀬七条上ル、六角堂、聖護院村に設置された基準点を視準して測量した、などと解説されています。
茨城県つくば市にある国土地理院「地図と測量の科学館」の「地球ひろば」には内務省の標石や現行の基準点などともに清水寺の標石、最上部表示標の複製品が展示されています。
京都吉田山の標石
地図:京都東北部
清水寺測点の発掘後、京都市内の測点跡を探索していましたが、7年後の2007年(平成19)12月に市内左京区の吉田山山頂近くで×印のある標石が見つかりました。
現行三等三角点「吉田山」5235−46−2301から北北東120m地点、地上露出4センチメートル程度で落ち葉と土に隠れていました。標石は花崗岩ではなく灰黒色の岩石で一辺9.5センチメートル、上面に対角線が東西、南北の向きに刻印されています。柱石は全体に末広がりですが完全な錐体ではありません。南東面はほぼ垂直になっています。南西面の上辺5センチメートル下、左よりに文字らしいものあり「や」とも「四」とも読めますが荒削り跡のようです。また整形部と荒削り部の境界は不鮮明です。
内務省清水測点との距離は現行の地形図によると3487メートルありますが1875年(明治8)内務省の「京都三角網素圖」からの推定では3424メートルになります。網図のほうは清水寺、吉田山間を直接測量していないことから数値の記載がなく、かつ測角も不明ですから正確なものではありません。しかし網図による位置と見つかった標石の位置はかなり近いことがわかります。
当地点はかつて吉田神社と民有地の境界にあたり草深い、踏み跡でしたが1994年(平成6)頃から都市公園法にもとづく「吉田山緑地」の整備のため遊歩道が設けられたところで標石はその歩道の中央で見つかりました。また標石の北東2.4メートルには民有地の塀に使用されている石杭ありそばには一辺15センチメートル角、地上高さ20センチメートル「社地境界」と刻字された石杭があります。「社」とは「吉田神社」と推定されます。
この標石の一辺が9.5センチメートルであり清水寺の標石(地中標)は15センチメートルあることから内務省の「京都三角網素圖」にある測点とは断定できません。また新潟米山の対角線のある小型標石は9センチメートルあることから内務省とは無関係とも言いきれません。今後同種の標石が市内で見つかることを期待します。
淀小橋址(京都の水準測量)
地図:淀
京都の三角測量にともない高低測量(水準測量)も実施されました。三角測量と同様に内務省年報にはつぎの記録が残されています。
同年(明治9)十月三等網紀高低測量ヲ起シ底點ヲ淀小橋量水尺...ニ要メ几號ヲ市街ニ施キ同年十二月ニ至ツテ卒業ス是月三角測點ノ所在ヲ後来ニ示サンガ為メ洛外八箇所洛中一箇所ヘ石標ヲ建設ス... [内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p434]
ここに記述されている淀小橋はかつて宇治川にかかり淀城下の入口にありましたが1898年(明治31)からの桂川、宇治川、木津川の改修工事でなくなりました。淀小橋の跡を示す碑は1928年(昭和3)に建てられましたが、それも移設され現在は京阪電鉄淀と淀城址に隣接した與杼(よど)神社駐車場にあります。またこの復元碑が1990年(平成2)に北へ250メートルの伏見区納所(のうそ)町八番に地元の団体により設置されています。
また「洛外八箇所洛中一箇所ヘ石標ヲ建設ス」とありますが、この計9ヶ所の三角点標石と「京都三角網素圖」にある27ヶ所の三角点との関係は不明です。「洛中一箇所」は清水寺の測点の可能性が考えられます。
この水準測量にともなう水準点は確実なものは見つかっていませんが京都市伏見区の国道24号に面した御香宮神社東門の燈篭にある几号水準点が、それではないかと推測されます。この水準点はこのホームページのライブラリー「関西の几号水準点」で紹介します。
大阪の測量
国立公文書館所蔵の「大坂三角網素圖」を見ましたが、「明治八年五月 御雇英人ロバルト、ウイルソン 謹測」とあり大阪城がCasle 、造幣局がMintなどとと表現されていました。ウイルソン(Wilson)は1872年(明治5)から工部省測量司(のち内務省地理寮)のお雇い(測量助役)英国人です。同氏の指導により吉田秦正(生没年不明)、関野修蔵(1852〜1929)も従事しています。この三角測量の記録としては内務省第一回年報(明治九年)に記載されています。内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p598]
また1881年(明治14)に内務省地理局による「補測」が完成したことが記録されています。[内務省年報 明治十四年報告書、三一書房版 1984 p10]
測量にもとづく実測図は1886年(明治19)内務省地理局圖藉課から五千分の一(一部二千五百分の一)「大阪實測圖」として発行されています。わたしは大阪府立図書館(中之島)で桐箱入りの実物をまた京都大学付属図書館でその複製を見ました。「大阪天守臺測点」の位置が西経四度...で表されており本初子午線がまだ東京であったことを裏付けています。この地図には三角点や水準点の表示はありません。
三角網図には21ヶ所の三角点が明記され、うち6ヶ所は当時の小学校に設置されたことがわかります。この三角網図をたよりに寺院などに設置された三角点も探索しましたが、まったく見当たりません。戦災の影響で消滅したものと思われます。
広島の測量、江波皿山の測點
地図:広島
由緒ははっきりしないのですが広島市内に昔の三角点に相当する測點があるという話を聞き調べてみました。桜の名所江波皿山(標高52メートル)の山頂広場の中心にあり直ぐにわかりました。
一辺30センチメートルの角柱(直方体)で高さは基礎上部55センチメートルあります。上面は×の交線が東西、南北方向にあり、南西面には三角を二重にしたマークと測點の刻字が、北西面には明治十二年一月、北東面には「東經」、南東面には「北緯」という文字が入っています。経緯度の数値は入っていません。基礎は粗雑なコンクリートですが明治時代の工事とは思えません。近年に補修または移設されたのではないでしょうか。「明治十二年」(1879)から推察すると内務省地理局のものとおもわれますが同時代の測點とは形が異なり仕様が一致しません。また三角を二重にしたマークは1878年(明治11)に制定された内務省地理局の「測絵図譜」では「原三角点」といわれています。
なお標石に経緯度が刻字されている例としては栃木県晃石山にあった内務省の原三角点でのちに一等三角点「晃石山」5439−45−2401に流用されたものです。当時の点の記によれば「東經」、「北緯」とともに経緯度数値が刻字されています。現在は改埋されており当時のものではありません。
この標石に関して記述された設置当時の文献はまだ見つかっていません。内務省が計画した1878年(明治11)の全国大三角測量計画の一環で地方の原点として設置されたものであると推定された論文があります。[東海林日出男:中国地方の「原三角点」 「日本測量協会中国支部報」No.11 1994 p4]
広島市の江波皿山は標高52メートルありますが現行の三角点はなく、直ぐ東にある江波山(皿がつかない)のほうには標高37.9メートルの三等三角点「江波」5132−43−3501があります。いずれの山も見晴らしはよく山頂近くまで車で上がることができ広島市民の憩いの場所となっています。
長崎の測量
1876年(明治9)に発行された内務省第一回年報、1877年(明治10)の同第二回年報にはつぎの記述があります。
長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼島神ノ島等ノ地ニ於テ測點ヲ二十九箇所ニ撰定シ其新大工町ト片瀕郷ニアル二點間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日ニ至リ全ク成ル [内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p595]
長崎三等三角測量ハ明治九年四月起業九年六月マテノ事業は前周年ノ報告書ニ詳カナリ同年七月底線測量トシテ其長サヲ算定ス夫ヨリ測点石埋設測標臺建築及測角等ノ事業漸次施行シテ十月ニ至リ卒業ス次テ三角諸邊ノ長サヲ算籌シ一万分一比例線三角網圖ヲ製シ十一月極星ヲ測リテ真子午線ヲ定メ十二月補助点ヲ測定シテ三角測量全ク卒業セリ [内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p428]
上の文献のつづきとして、このあと細形測量に着手しましたが廃寮置局があり1877年(明治10)6月に中断した記述があります。
地図については1881年(明治14)内務省地理局が「大日本國全圖」の分轄図として発行した「長崎福岡大分三縣圖」がありますが86万4千分の1と小縮尺で「測點」は載っていません。 [地図資料編纂会編:明治前期内務省地理局作成地図集成 第2巻 日本図編 柏書房 1999]
明治十七年測圖同二十七年製版、陸地測量部の一万分一図、長崎近傍ノ五「福田村」には天門峰の測点位置に三角点記号と標高165,35が、また同長崎近傍ノ六「深堀村」にも大久保山の測点位置に三角点記号と標高158,38、さらにその上に意味不明の「(13)」の記載があります。地図にある三角点記号は地理局の測点そのものであり陸軍の測量では三角点として使われたという説、地理局の測点と同位置に別途、陸軍も三角点を設置したがその後亡失し地理局の測点はそのまま残ったという説、また陸軍のものは亡失でなく、もともと標石のない図根点であったという説も考えられますが真相はわかりません。明治三十四年測圖同三十六年製版、陸地測量部の二万分一地形圖長崎要塞近傍六號「深堀」では天門峰の測点位置には三角点記号はなくなり標高164,7鰯見(イワセン)嶽と記載があります。また同図幅で大久保山の測点位置にはなにもありません。
後日分かったことですが、長崎歴史文化博物館に当時の測点用地について小林一知内務御用掛から長崎県に買収打診のあった測点敷地図面などの文書が残っており天門峰は「アバ山」としてまた大久保山は「魚見岳」としてほかの測点約30点とともに記載されています。[長崎縣:明治十年至仝十三年 庶務課地理掛事務簿 全 雑ノ部 大三角測量敷地買上 内務省地理局気象観測臺用地買上測点敷地図面 請求記号14 721−3]
現在、残存している天門峰や大久保山の標石が当時の内務省の測量に該当するか確証を得るには、さらなる裏づけがほしいところです。今後その素性を明らかにするため同種標石の発見、当時の公文書、新聞などの調査、「明治九年」と「地理局」の刻字矛盾点の解明、とくに大久保山の測点のように上面に×の刻印がないものについて地中標の存在、野帳、実測図などの測量成果の調査が考えられます。
天門峰の測点
地図:長崎西南部
2006年(平成18)2月に長崎で内務省地理局の標石が2ヶ所に残存しているとの報せがあり、現場を探訪しました。長崎港の港口に新しく架橋された女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹にある魚見岳で見られます。
天門峰は標高160メートルの山で神崎(こうざき)神社からの登山道を女神大橋西端から入り20分程度の急登で達することができます。山頂にある大岩が測点になっています。岩の大きさは幅1.4、奥行0.8、地上高さ1.0メートル、上部中央(「地理局」刻字の真上)には一辺20センチメートルの正方形で深さ2センチメートルのくぼみがあり、さらにその中央には一辺9センチメートルの四角い凸部があり東西、南北方向に対角線が彫られています。やや斜めになった岩盤上の刻字は縦書きで左が「地理局測點」(幅6、全長40センチメートル)右が「明治九年第四月」(「第四」の文字は推定、幅4、全長34センチメートル)と読めます。内務省地理寮が改称され地理局が発足したのは1877年(明治10)ですから実際の観測は1876年(明治9)の地理寮時代に行われ標石の刻字は後年にされたとも考えられます。京都清水寺に残存する内務省の「測點」は地理寮と地理局の両方が彫られています。この標石はかなり以前から知られているようで現地のガイドブックにも載っていました。
山頂の岩に「明治九年第四月地理局測点」と刻んだ三角点があり、10年前までは何とか判読できましたが、現在「地理局」だけがかろうじて確認できます。この岩の上に立って展望する人の登山靴に踏まれて磨耗したのでしょうか。 [林正康:長崎県の山歩き 葦書房 2000 p73]同様の記述は[長崎市教育委員会:長崎市周辺ハイキングコース 1975 p29]
このガイドブックにあるほど磨耗はしてませんが、かなり判読し難い字もあり写真を撮るのに苦労しました。なお山頂には近年設置されたと思われる直径5センチメートルで「+」と「基準点」のみ彫られた金属標が載った地上高さ10センチメートルのコンクリート杭がありました。女神大橋架橋関係の測量に使用されたものかもしれません。
長崎の測量、大久保山の測点
地図:長崎西南部
この測点は大久保山の中腹にある魚見岳というピークの近くにあります。女神大橋東端の下水処理場から大久保山への尾根筋を登ると史跡、長崎(魚見岳)台場跡がありその先ピークの手前、登山道の左、雑木林にあり、およそ標高170メートルの地点です。台場の最上部、一ノ増台場から徒歩15分で到達できます。
標石はかなり傾斜しており一辺15センチメートル、地上高さ45センチメートル、上面は低い角錐形になり、東面に「地理局測點」北面に「明治九年第五月」の縦書きの刻字がはっきり読めます。他の面には刻字はありません。
わたしがこの標石を探訪した数日後、この標石から南2メートル程度、離れた木立のなかで標石の基盤石のようなものが発見されたという情報を得ました。一辺30、厚さ10センチメートルの立方体で中心付近に一辺20、深さ5センチメートルの穴が彫られており標柱がぴったりと入る大きさになっています。さらにその中に一辺10センチメートルの正方形の角穴がくり抜かれています。かりに現存する標石が表示杭として地上標であり、別に本点として地中標があると仮定するならば発見された基盤石は対角線の刻印もなく角穴も開いており地中標ではないと思われます。[橋本幸雄:研究レポート第2集 江戸期の「みさき道」 Mみさき道歩会 2006 p171]
そのほか都市の測量
そのほか当時、内務省による都市の測量は新潟と兵庫神戸があり、それぞれ内務省年報に記録されています。新潟は22ヶ所の測点が設置され、神戸は14ヶ所の測点と2ヶ所の測点、17ヶ所の几号水準点が設置されています。[内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p594−595][内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p429、p433]
館潔彦の「洋式日本測量野史」によると1876(明治9)には神戸港と新潟港の三角測量も行なわれ、前者は小林一知が、後者は宮崎正謙、荒川重豊が担任し、いずれも三角点には永遠不朽の標石が埋設されたことになっていますが、まだ発見された情報は聞きません。[館潔彦:洋式日本測量野史 「三交會誌」 二十一號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p282]