経緯度の観測

日本の三角点の経緯度は東京の原点を基準にして三角測量(測地観測)によって求められていましたが1892年(明治25)に日本経緯度原点が設定されるまでは天文測量(天体観測)で要所の経緯度が決定されました。天文経緯度といいます。天文測量による緯度は観測地点からみた天の北極の高度角になります。天文学では高度角は単に高度といい地平線から天頂に向かってはかった角度です。北極星はほぼ天の北極の位置にあるので北極星の高度がおおよその緯度になります。北極星は地球から400光年もはなれたところにあるので地球上どの位置から見ても方向線は平行です。[国立天文台:理科年表 丸善 1996 p124]

観測地点から北極星の高度を観測すれば緯度が求められます。すべての星が北極星を中心に回っているようですが地球が自転しており、そのように見えるだけで、しかも北極星も真の北極を中心にして小さな円を描き一日で一周しています。また地球の地軸も26,000年を周期として回転しています。したがって北極星の高度では厳密さを欠きます。実際の緯度観測では恒星の子午線通過の高度を観測しホレボー・タルコット法(Horrebow-Talcott Method、明治時代はタルコットを漢字では土爾忽と書きました)で求めました。天頂の南北両側にある2個の恒星の高度の差を測定し、あらかじめ観測されている恒星の位置(赤緯)から緯度を求める方法で両恒星の高度の差が小さければ大気の屈折による誤差も少なくなります。また高感度の気泡水準器(タルコットレベル)で観測につかう子午儀の状態を一定時間維持します。この方法はデンマークのホレボーが18世紀に考案し1845年米国とカナダの国境測量のためタルコットによって有効に利用されました。現在、国土地理院ではタルコット法は使われていません。[前田憲一:地球の物理 恒星社 1959 p294−295]

写真の天文経緯儀は国立天文台三鷹キャンパスと同水沢観測所で所蔵されており説明板にはそれぞれ子午儀、子午環とありましたが誤りでのちに1875年頃の英国トロートン・シムス(Troughton & Simms)社の 天文経緯儀と判明しました。写真の子午儀は1944〜1955年頃まで時刻決定に用いられていました。ドイツのカール・バンベルヒ(Carl Bamberg)社製で製造年代は不明ですが「No.7959 Carl Bamberg Fridenau Berlin」の刻印があります。[中桐正夫:国立天文台最古といわれた1875年製望遠鏡の物語 天文月報 Vol.101 No9 日本天文学会 2008.9 p535−542]

また経度は原理的には太陽や恒星がグリニッジ天文台を通過した後、観測地点を通過するまでの時間から算出できます。太陽は大きく眩く輝き観測しにくいので実際は星の観測を子午線面内にしか動かない子午儀をつかいました。24時間が360度に相当しますが正確な時刻の測定が必要になります。観測地点と経度の既知点との間で電信などによって相互に連絡をとりあい測定したり、またクロノメーターといわれる正確な時計で計測しました。クロノメーターは1761年、英国のハリソンによって考案され温湿度変化のすくない金属を用い一日に±0.1秒の精度でした。航海では3個べつべつに木箱にいれたクロノメーターをつかい誤差補正をしました。2、3日間に一回、ゼンマイを巻く必要がありました。クロノメーターは現在、使われることはありません。写真上のものは国立天文台水沢観測所内の木村榮記念館の展示物で左はUlysee Nardin社製1907年(明治40)購入、右がSchowob Freres社(現CYMA)1912年(大正1)購入、ともにスイス製です。両メーカーはまだ時計製造業として健在です。写真中と下は国立天文台三鷹キャンパス内の展示物でVacheron Constantin社製ですが製造年は不明です。同社は、いまもスイスの最高級時計製造業として有名です。わが国では1871年(明治4)長崎とウラジオストック間の通信線が布設され国際電信網に結ばれましたが1874年(明治7)にはダビッドソンとチットマンにより電信を利用して経度測量が行なわれました。電信で両所の時計をあわせておいて、おなじ星の子午線通過を両所で観測し測定時間差から経度差をもとめました。

天文経緯度を測定するためには子午儀、子午環、天頂儀、天文経緯儀などの望遠鏡があります。子午儀は天体の南中時刻に観測地点の経度を求められ経度既知であれば天体の赤経を求められます。回転軸は東西に配置し、駆動は南北方向のみで高度目盛も簡単なものです。子午環は天体の南中時刻を正確に測ると同時に天体の高度を測り基本星表のデータとするもので駆動は南北方向のみで高度目盛は大きなものがついています。南北の校正のため離れた位置に子午線標があります。天頂儀は恒星の天頂距離の差を測定し観測地点の緯度をタルコット方式で求める望遠鏡です。駆動は垂直面、水平面とも可能で水平目盛、高度目盛ともあります。望遠鏡は接眼部を180度回転させなければならないので水平軸の中心に置かれていません。天文経緯儀は測定地点の経緯度を能率的に求めるもので駆動は垂直面、水平面とも可能で水平目盛、高度目盛ともあります。写真の子午環は1903年(明治36)のフランスのゴーチェ社(Paul Gautier)製ですが1924年(大正13)東京天文台が麻布から三鷹に移ってのちに本格的に稼動したもので現在はつかわれていません。

仙台愛宕神社の經緯度測點

地図:仙台東南部

JR仙台、南1キロメートルの小高い丘にある愛宕神社山門の南西にあります。もともと現位置の北20メートルの地点にあったのですが1978年(昭和53)の宮城県沖地震ののち移設されました。東西方向70センチメートル、南北方向60センチメートル、高さ1.2メートルの角柱で下部は角石で石積されています。上面は北を上にして東西方向に「經緯度測點」、「内務省地理局」と右書きの刻字があり両文字の間に一辺6.5センチメートルの△と中央に・の薄い刻印があります。また上部西側面には「明治十六年十一月」(右書き)の刻字が、さらに上部南面には几号水準点の記号である「不」の字が刻印されています。「不」の字は飾りのある枠で囲まれており横棒は8.5センチメートル、縦棒は9センチメートル、地上高は1.2メートルになっています。[上西勝也:測地観測遺跡の残存状況「測地学会誌」55巻1号 2009年 日本測地学会 p95]

1883年(明治16)10月31日に日蝕があり、宮城県の一部で金環蝕が見られるため内務省地理局では名取郡南長谷村(当時の所在地)の深山神社境内で観測と経緯度測定の準備をしましたが、あいにく当日は雨天のため観測できず、11月に仙台に移り、経緯度測点を愛宕山上に選定し11月7日から17日まで経度測量、同21日から12月2日まで緯度測量を内務省御用掛小林一知、地理局雇杉山正治により行われました。当時の記録では東経一度七分九秒四(本初子午線は東京)、北緯三十八度十四分四十六秒九になっています。[内務省地理局測量課:仙臺愛宕山經緯度測量報告 明治十六年 1883 p1 気象庁蔵][内務省:内務省年報 明治十六年報告書(復刻版 三一書房 1984 p82)]

当時の新聞には、つぎのとおり報道されています。

○經緯度測量 金環蝕測量の為出張せられたる寺尾小林両御用係には巳に前號にも記せし如く當區の經緯度測量に着手せられしに付田町角より土樋を歴て愛宕山へ仮電信を架設せられぬ尤測量濟の上は右標石を永代に保存せらるヽといふ[奥羽日々新聞 第千九百二號 明治十六年十一月六日 1883]

○經緯度測量の標石 金環形撮影のため過般来仙されたる小林内務省御用係には當時字越路愛宕前通に於いて経緯度を測量されしが此程同所へ標石を建られ夫を永世保存せんと宮城縣廳へ依頼されたる由なり[奥羽日々新聞 第千九百三十三號 明治十六年十二月十三日 1883]

1883年(明治16)ころは内務省地理局では三角測量の全国展開をしようとしていた時期で天文観測による経緯度測量は1880〜84年(明治13〜17)の間、仙台愛宕山のほか那須基線両端、宇都宮、長崎、大阪、京都、東京(天守台で経度のみ測量)、横浜で実施されています。このことから主要な地点の位置は三角測量に先立ち仮に天文測量で決めていたとも考えられます。[内務省地理局測量課:日本全國三角測量報告 天文之部 1880〜84 p1][内務卿:内務卿第六回年報 1884(復刻版 三一書房 1984 p23)]

この「經緯度測點」は内務省地理局により設置されましたがその後、陸地測量部に移管されたこと、また宮城県も三角測量に利用していたことはほぼ確実です。1893年(明治26)には宮城県知事から内務大臣あてに宮城県の三角点と連係をとるため「經緯度測點」の引渡しについて申し出があり、その文書が内務省から陸軍省に引き継がれ参謀総長の回答としては陸地測量部で入用につき譲渡できないが宮城県が使用しても差し支えなしとなっています。[陸軍省:測量標引渡方ノ件(宮城県、内務省、陸軍省の関連文書)1893 国立公文書館アジア歴史資料センター蔵]

1893年(明治26)に東京帝國大學で発行された「明治廿七年暦」には各地の経緯度が記載されており、そのなかで測點「陸前國宮城郡仙臺愛宕山」として東経九時二三分三〇秒、北緯三八度一四分四七秒とあります。

伊香保温泉 千明仁泉亭のモニュメント

地図:伊香保

伊香保温泉の旅館、千明(ちぎら)仁泉亭の正面玄関前には標高や経緯度を測量したと思われるモニュメントが建っています。「海抜二千五百六十三尺則四百二十七間一尺 明治十二年八月(一八七九)小林一知 仁泉亭 千明三郎庭前 海抜七百五十四米 北緯(中略)陸軍測量部 中尾氏 仁泉亭 千明三右衛門 庭前」とあります。小林一知(こばやし・かずとも 1835〜1906)は当時、内務省地理局の要職にありましたが「中尾氏」の方は詳しいことはわかりません。

小林一知や中尾氏がこの旅館に宿泊して本来の業務として測量したのか旅館の主人に請われて好意的に測量をしたのか、わかりません。モニュメントは何度も書き替え、建て直しがされているようです。千明仁泉亭は1502年(文亀2)創業といわれ由緒ある旅館です。

三条市 地理局日食観測碑

地図:加茂

1887年(明治20)8月19日新潟県から茨城県にかけて皆既日食が見られ外国からも観測隊の来訪があり日本ではじめての近代的な日食観測が行われました。[作花一志・福江純:歴史を揺るがした星々 恒星社 2006 p159]

内務省地理局では宇都宮で観測しましたが別途、新潟県東大崎村(現三条市)の永明寺(ようめいじ)山(現大崎山公園)でも観測が行われました。地理局でかつての測量技術者であった荒井郁之助(初代中央気象台長)、杉山正治(後に陸地測量部)などが参加しコロナ(光冠)観測にも成功しました。当日は悪天候のため他地点では満足な結果が得られませんでした。内務省地理局では1884年(明治17)以降、地図測量は参謀本部へ移行されましたが気象観測、天文観測の業務は残っていました。

大崎山公園はJR東三条の南東約4キロメートルにある小高い丘で車で公園入口まで通行可能です。展望台からは三条市街を望むことができます。日食記念碑は頂上広場の中央にあり高さ1メートル程度のマウンド上に設置されています。碑は高さ1メートルの石造で正面には右横書きで「觀測日食碑」とあり縦書きで観測経緯が刻字されており地元県会議員の協力もあったことがわかります。また経緯度、標高が明示されていることから正確な経緯度の観測も行われたと推察されます。裏面は「明治二十季九月 内務省地理局」とありました。


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