参謀本部の測量

明治維新後、陸軍の地図・測量部門の職制はつぎのように目まぐるしく変わっています。1884年(明治17)頃から内務省地理局と類似の地図測量が実施され1888年(明治21)には完全に統合されています。

1871年(明治 4) 7月 兵部省陸軍参謀局
1872年(明治 5) 2月 陸軍省参謀局
1873年(明治 6) 4月 陸軍省第六局
1874年(明治 7) 2月 陸軍省参謀局
1878年(明治11)12月 陸軍省参謀本部
1884年(明治17) 9月 陸軍省参謀本部測量局
1886年(明治19) 3月 参謀本部陸軍部測量局
1888年(明治21) 5月 参謀本部陸地測量部

迅速測図の作成

1879年(明治12)、参謀本部測量課長、工兵少佐小菅智淵の「全國測量速成意見」にもとづき迅速測図によって全国の二万分の一地形図の作成を進めました。当時軍制はまだ幕府から引継いだフランス式が残存しており測量・地図作成も陸軍兵学寮のお雇いフランス陸軍大尉ジョルダンなどの指導による1873年(明治6)に発行された「地圖彩式」によるものでした。

小菅智淵(こすげ・ともひろ 1832〜1888、幕臣関定考の次男)は幕末には軍艦操練所にも出仕しましたが後に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の後継である開成所に転じています。明治維新後の戊辰戦争では五稜郭での戦いに敗れ幽閉の後、兵部省に出仕し1879年(明治12)に参謀本部測量課長、1888年(明治21)に任命され全国測量計画を策定、陸地測量部発足時には陸軍工兵大佐として初代の陸地測量部長に就任しています。実弟の関定暉は陸地測量部初代の地形課長です。沼津兵学校、開拓使出身で当時の陸地測量師であった関大之とは別人です。

1880年(明治13)〜1886年(明治19)に陸軍省参謀本部が測量した東京府下、千葉、茨城、埼玉、神奈川県の一部を描いた第一軍管地方二万分一迅速測図の原図921枚は国土地理院で保存されています。フランス式地図といわれ彩色と文字が華麗ですが地図の欄外に「視図」といい、その土地の著名な景観や建物のスケッチや断面図もあり芸術性豊かな地図です。このことからも当時、川上冬崖をはじめ多くの画家が測量部門に採用されたことを理解できます。原図は1991年(平成3)に複刻され「明治前期手書彩色關東實測圖 第一軍管地方二万分一迅速測圖原圖覆刻版」として日本地図センターから限定170部が発行されています。[長岡正利:明治前期の手書彩色関東実測図「国土地理院時報」74 1991 p21−32]

しかし軍制全般がドイツ式に移行されたため1884年(明治17)には墨一色刷りとして発行されています。右は迅速測図の例で原図の表題は「茨城縣下總國西葛飾郡古河町」、「明治十七年一月」「第四拾號之四」などと製飾部(地図枠外)にあります。また印刷発行図は表題が「古河町」で「明治十七年測量」「古河及関宿近傍第十七號(第一軍管地方迅速測圖)」「参謀本部陸軍部測量局」とあります。いずれも二万分の一図で国土地理院所蔵のものですが写真は約50パーセントに縮小しています。

仮製地形図の作成 (京都の事例)

迅速測図が関東で測量され地図の発行がされていたのに対し関西では第四師管で准正式地形図の測図が実施されています。これはのちに「假製圖」と呼ばれているものです。その後あらたに関東地方では三角測量、水準測量による二万分の一正式地形図の測図が開始されていますが、すでに迅速測図のある地域は後回しになりました。1894年(明治27)に日清戦争がはじまり作戦地図作成を優先したためと考えられます。したがって大正初期までは地形図は二万分の一で迅速測図(関西では仮製図)、正式図が混在することになります。

京都の場合、京都中心部(例として図名「京都」)について1889年(明治22)に測量されその結果、1892年(明治25)に「假製地形圖」として大日本陸地測量部として「出版」されています。その図幅は、北は鞍馬、大原までです。またこの時点ではまだ三角点は明示されていません。

二万分の一地形図はその後、正式に作成しなおされ京都中心部(例として図名「京都北部」)は1909年(明治42)に測量、1912年(大正1)に正式図として「発行」されています。このときはじめて△に中点の三角点記号があらわれさらに現行の地形図と同様に四隅に緯度経度が掲載されています。京都周辺が一度に同時期に発行された訳でなく当面は假製図と正式図の共存がつづきました。ところが両図には区画のズレが多少あり、たとえば假製図の「大原村」「鞍馬山」「細野村」などがそれぞれの北にあたる正式図の「伊香立村」「桟敷嶽」「周山村」などとの間で隙間ができピッタリつながりません。これを補充するため「京都號補足圖」という珍しい図面が1895年(明治28)に発行されています。

二万分の一の假製図や正式図は現在のような二万五千分の一が完備されていなかった昭和中期までは一般に活用されたと思われます。これらの地形図はコピーならば、いまでも国土地理院から有料で入手することができます。1890年(明治23)には全国的に基本図の縮尺が五万分の一に改訂され現行地形図のもとができあがりました。

二万分の一 假製地形図
 1884〜1890年(明治17〜23)測図

 細野村  鞍馬山  大原村
 愛宕山   京都   大津
 沓掛村   伏見  醍醐村
 山崎村   淀   宇治

二万分の一 正式地形図
 1886〜1912年(明治19〜大正1)測図

 知井村  三國嶽   細川 
 弓削村  黒田村  葛川村
 周山村  桟敷嶽 伊香立村
 瀧之町   鞍馬   大原
  嵯峨 京都北部   大津
 大原野 京都南部   膳所
  山崎   淀   宇治


参謀本部測角點

1881年(明治14)に参謀本部で発行された迅速測図原図のうち「神奈川縣武蔵圀橘樹郡大師河原村」の整飾部には「参謀本部測角點 明治十三年九月」の表示が読める標柱が描かれており説明には「自羽田村(イ)三角點位置望大師」とあります。三角点の位置を表す標柱と思われますが「測角點」という用語は類例を見ません。陸地測量部発足以前の測量標識には、いろいろな用語がつかわれていました。

三角点選点杭

三角点の測標(やぐら)や標石が設置される前段階として選点作業があります。既設の三角点との位置関係、見通し、作業のし易さなどを検討し最適な位置が選点されます。このときに実地踏査をし目印として仮に選点杭が立てられることがあります。 写真の選点杭は1886年(明治19)のもので兵庫県養父町餅耕地の民家に1984年(昭和59)頃までありましたが現在、国土地理院に保管されています。写真の右から2本目の下が尖っているものが実物でその右は実物の正面、左は側面と裏面のコピーです。実物は長さ97センチメートル、一辺5.4センチメートルの杉材角柱です。正面には「参謀本部陸軍部測量局一等三角點」、左側面には「明治十九年十月」、裏面は「三角測量課撰」と墨書きされています。この杭は実際に使用された形跡はなく餅耕地集落の西2キロメートルの山頂(現在の二等三角点「須留ヶ峰」5234−75−3501の東1キロメートル)に一等三角点補点を設置する予定が天狗の伝説や樹木伐採などの問題があり断念され杭は使用されずに残ったものと思われます。[紙魚漁史:100年前の測量杭「国土地理院広報」国土地理院 1984 189号p3、190号p11、191号p3、192号p4]

餅耕地の選点作業は民話として伝承されています。1886年(明治19)、測量官が地元の木挽きを連れ岩屋谷の口まで行ったとき突然、大雨が降ってきました。木挽きは「こりゃ、高山のスリガ峯に狗賓さんがおるんで、木を切るいったら、狗賓さんの休むとこがのうなる、そのおとがめあるんじゃ。こりゃ山へあがられん。木を切るなんぞできん。よう行きまへんわ。」といって戻りました。測量官もあきらめ餅耕地のスリガ峯には三角点を立てず草刈り山で木がない大屋のスルガ峯に立てることになりました。選点杭が長年保管されていた餅耕地の朝日敏雄氏の祖父伊兵衛氏の記録では標識を建設のため「測量技師人足早田仁助を連れて登山せんとしたるに大雷雨となり事止みとなる日傭賃金六銭也」とあります。早田氏は1856年(安政3)生まれ、測量当時31歳でした。[立石憲利:餅耕地の遠野物語 「民話の手帖」No.20 日本民話の会 1984 p31]

基線の設定

基線は三角測量に使う最初の三角形の一辺です。直線で長距離間、できるだけ平坦で、かつ見通しのきく土地が選定されます。基線尺という物差しで数キロメートルの直線を正確に測りますが最初の測量が終わった段階で基線の両端には一等三角点が設置され再測量に備えます。神奈川県相模原市と同座間市にまたがる相模野基線は1882年(明治15)地形図の整備計画により、参謀本部により本格的な全国統一をめざした基線としてはじめて設定されました。

相模野基線以前にも局地的、実験的な測量のため基線が設けられた実績があります。 記録に残っているものは1872年(明治5)に英国人マクヴィーン、ジョイネルの指導により工部省が設定した東京越中島と洲崎弁天間の基線、ついで1874年(明治7)東京本所一ッ目と三ッ目間の本所基線が設定、北海道では1873年(明治6)に開拓使がお雇い米国人ワッソン、デイの指導のもとに荒井郁之助らによる勇払基線、1876年(明治9)には福士成豊らによる函館助基線、また1878年(明治11)には「全国三角測量」の一環として内務省が那須西原で那須基線を設定し測量を実施しています。

基線は理論的には1ヶ所でよいのですが広範囲になると誤差が増え、その対策として明治から大正時代にかけ台湾や樺太をふくめ20ヶ所の基線が設定されました。これらの基線設定はわが国の測量業務が内務省から参謀本部の所管に変更になる時期から開始されたため相模野基線についで2番目に設定された三方原基線だけは内務省の測量によるものです。三方原(味方ヶ原)の測量では、ほかの基線と異なり英国製の測竿(基線尺)が用いられました。[内務省年報 明治十六年報告書 三一書房版 1984 p81]

北端ヲ都田村ニ、南端ヲ神谷村ニ撰ミ其兩端ニハ三尺立方ノ標石ヲ埋メ、其中心ニ銀ヲ嵌入シ十字ヲ刻シ各八間ノ高測櫓ヲ建テ標識トセリ [館潔彦:洋式日本測量野史 「三交會誌」第二十二號(須磨漁史により再掲)陸地測量部 1915 p335]


基線名   所在地           設定年       長さ(メートル)

相模野 神奈川縣相模國高座郡   1882年(明治15) 5,209.9697
三方原 静岡縣遠江國浜名郡、引佐郡1883年(明治16)10,839.9757
饗庭野 滋賀縣近江國高島郡    1885年(明治18) 3,065.7239
西林村 徳島縣阿波國阿波郡    1887年(明治20) 2,832.2124
天神野 鳥取縣伯耆國東伯郡    1888年(明治21) 3,301.8051
久留米 福岡縣筑後國御井郡    1889年(明治22) 3,161.0071
笠野原 鹿児島縣大隈國肝属郡   1892年(明治25) 5,875.5088
塩野原 山形縣羽前國最上郡    1894年(明治27) 5,129.5872
須坂  長野縣信濃國上高井郡   1896年(明治29) 3,291.9120
鶴児平 青森縣陸奥國上北郡    1898年(明治31) 4,006.0309
札幌  北海道石狩國札幌郡、札幌區1900年(明治33) 4,539.7703
薫別  北海道根室國目梨郡    1903年(明治36) 4,069.8502
聲問  北海道北見國宗谷郡    1908年(明治41) 2,677.5035
沖縄  沖縄県琉球國中頭郡    1911年(明治44) 4,151.6773
擇捉  北海道千島國紗那郡    1913年(大正 2) 4,105.6081
宜蘭  臺灣臺北州羅東郡     1914年(大正 3) 4,225.8415
埔里社 臺灣臺中州能高郡     1914年(大正 3) 2,575.7965
鳳山  臺灣高雄州鳳山郡     1916年(大正 5) 4,961.3844
大谷  樺太豊原郡        1922年(大正11) 4,999.6897
敷香  樺太敷香郡        1926年(大正15) 4,999.4504
 

わが国が統治していた台湾、樺太、千島に計6ヶ所が含まれています。いずれも大正時代になってから設定されました。[大村齊:本邦測量作業ニ於ケル基線測量ノ総覧 昭和2年8月2日 日本学術協会第三回大会報文 1927 附表其一]

基線測量

基線測量の方法については陸地測量部で1901年(明治34)に制定された「三角測量法式」(案)に細かく定められています。これは陸地測量部の内部指針のようなもので現在では国立国会図書館でしか見ることは難しいようです。同館蔵のものは図面が脱落していますが要点はだいたいつぎのとおりです。[陸地測量部:三角測量法式草案 1901 p7]

基線は3〜8キロメートルの直線を全長の百万分の一以内の精度で測定しなければなりません。平坦な一直線が得られる場所が望ましいのですが土地の傾斜は1度以内が理想的、2度半以内であれば許されます。基線の幅は10メートルです。基線路は両端間を2〜3分割して中間点(永久保存)を設置しますが、分割された各部をさらに2〜3分割して仮固定点(測定後撤去)を設置します。中間点と仮固定点を総称して節点といいます。両端と中間点は地中に盤石、その上に柱石(一尺二寸立方)、上面に点針を埋め込み、蓋で保護します。測定完了後は測量の日時、概要を記録した紙片をガラス瓶に納め密封して点針の傍に置きます。両端は後に一等三角点として使用するため、その上に通常の盤石、柱石を埋設します。天神野基線のように基線観測から三角点標石埋設まで23年間かかった例もあります。

測定は基線尺を用いて測定しますが、まず基線尺の検定を行い、ついで基線測量に移ります。求直線測量といい経緯儀で両端、節点が一直線にあることを確認しつつ行います。基線尺の温度補正や傾斜補正も行われます。基線測量によって得られる距離は斜距離ですから測定点間の水準測量を行い高低差から標高の低い方を基準とした水平距離を求めます。基線の各部を測定時間帯(午前と午後)や進行方向変え4回測定して平均と誤差(標準偏差)の計算を行います。最後に基線両端の経緯度の測定と近傍の一等水準点からの水準測量を行い、さらに楕円体高によって楕円体上の距離をを求めます。ここで楕円体高は本来、標高にジオイド高を加えた値ですが初期の測量ではジオイド高がわからないため楕円体高と標高は等しいものとして計算したようです。つまり楕円体面上の距離ではなく平均海面上の距離を用いて基線端点の位置を求めたことになります。内務省による那須基線の場合、基線の位置付近で距離10キロメートル、標高200メートルの基線で標高に1メートル程度の違いがあっても平均海面上の距離には2ミリメートル程度の影響しかありません。当時このようなことが十分議論されて誤差配分されたかどうかはわかりません。

基線が設定されるとその基線を三角形の一辺として、その両側に基線の長さの2〜3倍の位置にあらたな未知点を設け三角形を2組構成して2つの未知点の位置を求めます。これらの地点を第一増大点、増大点間を第一増大基線といいます。同様に第二増大点を求めますが、このようにして一等三角点間の長さに適合するところまで基線を増大します。

基線尺

ヨーロッパでの初期の基線測量では木製棒や湿度の影響が少ないガラス管がつかわれ、また鋼鉄製のチエーン(鎖)尺も補助的に利用されました。日本での初期の基線測量は1874年(明治7)に開拓使が米国から導入したヒルガード式基線尺と呼ばれる4メートルの長さの物差し3〜4個を順に使用して何度も繰り返し最終(到着点)は検定尺でミリメートルの桁まで測りました。ヒルガード式基線尺は米国測量局のヒルガード(J.E.Hilgard)が考案した基線測量用の物差しでヒルガード測かん(金へんに旱と書く)、四米突鋼かん基線尺あるいは觸接滑動測かんともいいます。巻尺ではなく直径9ミリメートルのまるい軟鉄製の竿になっており木棹中に包入され測棹の一端は瑪瑙(めのお)が埋め込まれ、他端は滑筒がありバネで外方に向かい圧縮されています。滑筒の端は瑪瑙で刃形になっており他の測棹の一端と点接触するようになっています。この基線尺は両端を三脚で支え外気温の影響を少なくするために天幕内で使用します。精度は5キロメートルで1ミリメートル程度の誤差です。基線尺は使用前後に米国の原器と比較された準かん(標準器)により検定されます。温度補正に使用する検温器(温度計)も氷点試験により検定されます。ヒルガード式基線尺は1874年(明治7)開拓使が北海道の勇払基線、函館助基線で使用、1878年(明治11)内務省地理局が那須基線で使用、さらに1882年(明治15)参謀本部による相模野基線以降、1908年(明治41)北海道最北端の聲問(こえとい)基線の測量まで使用されています。ただし三方原基線については1883年(明治16)内務省により英国製測かんで測量された数値を参謀本部により同測かんとヒルガード式基線尺とを比較し改算されています。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 1922 p68]

該基線尺の比較作業及實測作業は其の間晝夜に亘り最も奮勵努力を要し、實に文字通り不眠不休の劇務で當時の基線測量の屬員等が異口同音に「一度は行くべしニ度とやるべき仕事にあらず」と溜息をつく程の難作業であつたと云ふ。 [平木安之助:矢島測量師のこと 「地圖」陸地測量部 1944.8 p49]

相模野基線は最初1882年(明治15)にヒルガード式基線尺で測量され、1902年(明治35)再度、測地学委員会(文部省所管)が測量したときは温度変化に対応できる5メートルの米国フォース(Fauth)社製の氷漬鋼鉄製測かんをつかいました。まず100メートル比較基線の測定を行い、ついで基線測量に用いる100メートルと10メートル鋼鉄巻尺を比較基線上で検定し、これらの鋼鉄巻尺で実際の基線測量が行なわれました。

1908年(明治41)の聲問(こえとい)基線の測量の際はヒルガード式基線尺により4回測定されましたが、これとともにニッケル鋼5メートル基線尺により2回測定、さらに測地学委員会が所有するエーデリン式(Jaderin aにはウムラウトがつく、インバール合金製)25メートル基線尺により12回測定され3種の基線尺について比較もおこなわれています。 1984年(昭和59)稚内空港拡張工事にともない聲問基線東端点は移転改埋されることになりましたが、その際に点心の保護蓋の下からガラスの小瓶が出土しました。小瓶の中から当時の班長であった杉山正治陸地測量師により測量の目的やこれまでの基線測量の実施状況を和紙に記された「聲問基線測量紀要」が出土しました。本書は現在、国土地理院測地部にあるそうです。[西田文雄:ケプロン、聲問基線、測地成果2000 「三和」32号 三和会 2003.7 p30]

その後、測地学委員会によって1910年(明治43)に相模野基線の三度目の測量が行なわれました。このときはエーデリン式基線尺を使用して測量が行われ、同時に従来のヒルガード式基線尺とともにエーデリン式基線尺、ギョーム(Guillaume)式基線尺、レプソルド(Repsold)式基線尺について比較研究がされ、その結果、線状になったエーデリン式基線尺が実用面でも優れていることが認められました。[測地學委員會:相模野基線測量 測地學委員會報告 第貮巻 明治四十三年 測地學委員會 1916 p58]

1911年(明治44)から始まった沖縄や千島、台湾などでの基線測量でもエーデリン式基線尺がつかわれました。「不変金属製二十五米基線尺」と呼ばれました。インバールというニッケル36パーセントを含むニッケル鋼でつくられています。インバールはフランス度量衡局の4代目局長ギョームの発明したものでニッケルと鉄の合金でできており外界温度による変化がきわめて少ないものです。 ギョームはインバールの発明と精密測定の応用で1920年(大正9)ノーベル物理学賞を受賞しました。

その後はエーデリン式基線尺(インバール合金製基線尺)が主になってきました。写真はインバール合金製基線尺で25メートルの長さがあり両端には約10センチメートルの端尺(目盛尺)をつけます。この端尺は1ミリメートル間隔で8センチメートル分の目盛が刻まれており基線上にある指標(カットオフ球)をこの目盛りで読み取りますが、この際ルーペを手に持って拡大して0.1ミリメートル単位まで目測で読み取ります。相模野基線の1910年(明治43)の測量では顕微鏡がつかわれました。この基線尺は1960年代までは 測量機器の精度を確かめるための基線場などでつかわれていました。インバールは屈曲しやすく弾性が極めて小さいので、いったん曲げてしまうと復元し難く長さも変化するので取り扱いは慎重を要しました。また基線尺は極めて正確でなくてはならないので使用前にかならず一定の温度と張力(重錘をつかいます)のもとで検定されます。[日本測量協会:測量学事典 1990 p64]

1955年(昭和30)頃から一等三角辺長を直接測定可能な測距儀が実用化されたため1954年(昭和29)、滋賀県の饗庭野基線での再測量を最後に基線尺をつかった基線測量はされていません。[国土地理院:基線測量と基線尺「国土地理院時報」100号 国土地理院 2003 p9]

相模野基線

相模野基線の南北両端点の長さは実測で5209.9697メートルと記録されていますが関東大震災後24センチメートル長くなったようです。二万五千分の一の地形図「原町田」、「座間」には「基線北端点」「基線中間点」「基線南端点」の名称が明記されています。

北端点は一等三角点「下溝村」5339−23−3201として相模原市麻溝台四丁目にあり標石のほかに国土地理院の石碑と相模原市教育委員会が1990年(平成2)に建てた説明板があります。

中間点は四等三角点「基線中間点」5339−23−0301になっています。小田急相模原の近くで線路の南側の桜並木の遊歩道にあります。この辺りに座間中央ロータリークラブが設置された相模野基線の説明板があり、その北20メートルの道路上にあるハンドホールの中です。説明板によると中間点は南端点から2610メートルの位置にあり1902年(明治35)二度目の測量の際に測定時の直線を検証するなど正確を期すために設置されました。また当時この近くには「百米比較室」というのがあり基線尺の比較検定をしました。

南端点は一等三角点「座間村」5339−13−8401になっており座間市ひばりが丘一丁目にあるスーパースエヒロの駐車場が目標です。この駐車場の隣に内科医院があるのですが、こちらの宅内にあります。標石の傍には国土地理院の説明石碑があります。道路に面したフェンス越に見えます。

相模野基線はもともと1882年(明治15)に設置、測量が行なわれていますが、この最初の測量の際には南端点から1597.5432メートルの地点に第一中間点が、北端点から1744.8928メートルの地点に第二中間点が設けられています。基線全長を3区間に分け正確に距離が測定されました。これらの第一中間点、第二中間点は残存していません。また1902年(明治35)に北端点の内側10メートルの地点に補充点が設けられましたが、これも残存していません。

基線の長さは極めて精密に測定してあり、相模野基線では確認できませんが一等三角点標石の下方盤石のさらに下、地下約1.7メートルのところに基線端点標石が埋設され砲金製の針のような金属指標が正確な位置をしめしています。[武田通治:地形図の成り立ちと見方 古今書院 1959][測地學委員會:相模野基線測量 測地學委員會報告 第壹巻 明治三十五年、 第貮巻 明治四十三年 測地學委員會 1916]

相模野基線増大点

相模野基線の設定についで一等三角点「鳶尾山」5339−22−0601と一等三角点「長津田村」5339−23−1801が設置され、この両三角点間を新たな基線として一等三角点「連光寺村」5339−33−5701と一等三角点「浅間山」5239−72−8501の三角点が測量され、さらに基線が設定され、つぎつぎ三角測量が拡大されました。基線をもとにしてつぎつぎ増えていく三角点を増大点といいます。相模野基線の場合3回の増大で得られた一等三角点「丹沢山」5339−11−6301と一等三角点「鹿野山」5239−77−0601の間76キロメートルの辺が一等三角測量の最初の辺長になっています。

鳶尾山(とびおさん)の三角点は相模野基線の第一増大点として1882年(明治15)に鳶尾山に選点され翌年標石が埋定されました。ところが1971年(昭和46)に山頂周辺での土砂採取の影響が予想されたため北東1.1キロメートル、中津川をへだてた愛川町立中津小学校に移設されました。その後、土砂採取の影響がないことが確認され2004年(平成16)3月に再度、鳶尾山の元位置へ戻されました。愛川町の要請があったようです。

鳶尾山山頂へは小田急本厚木からバスで終点まつかげ台で下車し原谷公園、やまなみ峠をへて20分で到達できます。展望は愛川町方面、中津川から相模川一帯が見下ろせ相模野基線の第一増大点としてふさわしい位置で桜の名所にもなっています。

長津田村の三角点は横浜市緑区長津田町にあり東急田園都市線すずかけ台の南東方向600メートルの地点ですが東京工大と反対の南側から回り込まないと到達できません。地形図には高尾山と載っていますが野菜畑につづく低い丘陵で山頂には飯縄神社という祠があります。三角点位置からの展望は北に東京工大の長津田校舎、西は町田方面が開けています。

この標石が初期に設置されたものかどうかは定かではありませんが点の記によれば1883年(明治16)に相模野基線の第一増大点として田坂虎之助陸軍工兵大尉により標石埋定されたことになっています。田坂大尉は1875年(明治8)に任官しましたが、ただちに測量技術研究のためドイツに留学、1882年(明治15)帰国し、これを機会に測量は従来、内務省が採用したフランス式から陸軍のドイツ式に移行されました。その後、参謀局測量課長に就任し明治30年代まで三角測量の中心となり生涯を三角測量事業に捧げました。1883年(明治16)に「三角測量説約」が刊行されたとの説もありますが確認はできていません。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p608]


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