1888年(明治21)参謀本部陸地測量部が発足し内務省、陸軍省で行われていた測量業務はすべて陸地測量部に統一、初代部長は工兵大佐小菅智淵でした。本格的な三角測量と水準測量が全国で行われ正確な地形図が作成されました。陸地測量部は第二次大戦終結の1945年(昭和20)まで継続します。陸地測量部の発足にともない陸地測量部條例(勅令第25號 1888年(明治21)5月12日)、測量標石については測量標規則(勅令第58号 1888年(明治21)7月23日)が制定され測量標の保護が規定されました。三角点など測量標識についての法令としてははじめてのものです。その後、陸地測量標條例、陸地測量官官制、陸地測量官任用規則などが制定され(陸地測量師は奏任、陸地測量手は判任)、などの法律、規則や1901年(明治34)には「三角測量法式草案」の部内規も整備されました。
測量の実施方法
三角測量、水準測量とも内務省ですでに着手されていましたが参謀本部はそれを引き継ぎ1883年(明治16)頃から本格的に実施されました。当時、測量技術研究のためドイツ留学から帰国したばかりの田坂虎之助陸軍工兵大尉の影響が大きかったとされています。田坂は広島藩出身で1870年(明治3)北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさ 当時は伏見満宮、ふしみ・みつのみや 1847〜1895)の軍事教育のためのプロシア(ドイツ)留学に随行し1882年(明治15)に帰国しています。[西田文雄:わが国の三角測量を創業した田坂虎之助「国土地理院広報」 国土地理院 2008.4 p12、2008.5 p5][測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p608]
三角測量や水準測量の実施方法については1901年(明治34)になってから「三角測量法式 草案」(水準測量も含まれています)が作成されていますが、いわゆるデファクトスタンダード(事実上の標準)であり1906年(明治39)ドイツ留学から帰国した杉山正治陸地測量師により根本的な改正に着手され最終的には1915年(大正4)に「三四等三角測量實行法」、1916年(大正5)に「水準測量實行法」、1917年(大正6)になって「一等三角測量實行法」が作成されました。しかし、この時点では日本の三角点は北海道の一部をのぞきすべて設置済みでありこれらの実行法の内容すべてにもとづいて設置された訳ではありません。
地図上の三角点・水準点記号
現行の地図での三角点の記号表示は地形図二万五千分の一では全部、五万分の一では三等以上、四等は「標石のある標高点」として三角点とは別の記号で表されています。また地勢図二十万分の一では二等以上が載せられます。
三角点の地形図上の記号は「△の中に・」ということになっており一等、二等などの区別はありません。これは明治中期の陸地測量部の作成したころから、そうなっているのですが、それ以前の明治初期には右図のような記号がつかわれていました。もっとも古いと思われる記号は内務省地理局測量課1878年(明治11)版の「測繪圖譜」で原三角点と次三角点の2種類があります。これには経緯測点、高低几号(現在の水準点に相当)もあります。
その後1887年(明治20)、参謀本部陸軍部測量局の「二万分一迅速測圖記號」では三角標(三角点のこと)は「大三角」と「圖根」の2種類で前者は△に・で現行と同じ、後者は○に・となっています。また水準標(水準点のこと)は不の記号と数値を表記しています。またあらたに「獨立標高點」が設けられ・の記号で表されています。ところが同年の「假製二万分一地形圖記號」では三角標は一等から三等まで△に・ですが一、二、三等にしたがい△が少しずつ小さくなっています。四等三角標は○に・です。水準標は現行と同じで□に・でもはや不の記号はつかわれていません。
1891年(明治24)、陸地測量部の「二萬分一地形圖圖式」では現行と同じになり△に・が等級に関係なく同じ大きさで使われています。あらたに「測點ト為ササル三角点」として○に・の記号が設けられました。「三角標」の名称も「三角點」に替わりました。1909年(明治42)、陸地測量部の「明治四十二年式地形圖圖式」では「標石ヲ設ケタル四等以下三角點」として○に・の記号がつかわれています。「水準標」は「水準點」に名称が変更されています。
1955年(昭和30)、地理調査所の「1:50,000地形図新図式清絵模範」では三角点は三等以上を△に・で表し、独立標高点は「標石のあるもの」を・と小数以下1桁の数字で、「標石のないもの」を整数で表しています。1965年(昭和40)、国土地理院の「昭和40年式1:50,000地形図図式(案)」からは現行どおりですが三角点の三角の一辺は1.2ミリメートル、水準点の四角の一辺は0.8ミリメートルに定義されており独立標高点の名称は単に「標高点」と変更され直径0.3ミリメートルの・で表されています。また標高の数値の小数点は,(カンマ)から.(ピリオド)に替わっています。現行の二万五千分の一地形図では三角点はすべて表示されますが五万分の一では三等以上が三角点として、四等は標石のある標高点として表示されています。一万分の一地形図では国土地理院以外が設置した公共測量による三角点や水準点が載っている場合があり、地形図では凡例として三角点は▽に・、水準点は□に×と中央に・で表されています。しかし、わたしはまだ地形図の凡例だけで実際に描かれているものを見たことがありません。
以上は陸地測量部や国土地理院など国の機関で発行された地図上のことですが地方発行の地図には地方が設置した三角点などの基準点が記載されているものもあります。たとえば1925年(大正14)、都市計畫京都地方委員會発行の京都市三千分の一地図には陸地測量部の三角点、本委員会の三角点、市役所の三角点が異なる記号で記載されています。水準点も同様です。米国の地図では三角点は+の記号になっているようです。また、わたしの手元にあるタンザニア政府発行のキリマンジャロの地図では一等三角点は日本とおなじ△に・、二等三角点はそれを逆さまにした▽に・、そのほかの三角点は○に・となっています。
三角測量
参謀本部測量課は1881年(明治14)東京湾で試験的に三角測量を実施しました。この測量では関定暉工兵大尉、中田時懋砲兵中尉、矢島守一、三原昌などが参加しました。基線は安房国平郡(安房郡)北條、川名両村間に3.4キロメートル、点検基線として上総国周准郡(君津郡)富津、篠部両村間に3.3キロメートルを設定し、三角点は13ヶ所に設け標石を埋設しています。三角測量と同時に従来の平板測量(沿革誌では「図解的三角図根」と表現)の比較も行なわれました。その結果、三角測量の高い精度が明らかになり従来の図解図根測量では広範囲な地域に適用できないことが判明しました。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 1922 p25、附圖第8圖]
一等三角測量は1882年(明治15)に着手され隠蔽地の多い関東地方は後回しになり東海道から近畿、九州へと進みました。一方、内務省地理局では一等三角点の選点、観測が進行中でしたが、その結果を待たずして参謀本部は一部の地域で二等以下の三角測量を開始しようとし1883年(明治16)には相模野基線を設定して二等三角網に大きさを与えることになりました。この時期から二、三等三角測量が行われましたが1883年(明治16)の三等三角測量は翌年に米国で開催される万国子午線会議に提出する地図に経緯度を与えることを目的としていたようです。
この測量では三等三角点の位置を決めるための条件を満たしていなかったため測量成果(座標値)は後続の地図作成には使用されず標石は設置されましたが後に撤去されたようです。点の記は三等三角測量第一部として13点があり矢島守一が選定したことや地中標と地上標がともに設置されたことがわかります。第二部12点も同様です。成果記録は1884年(明治17)から残されています。なお正規の二、三等三角測量は陸地測量部が発足したのちですが第一部の地域は1903年(明治36)に第396部として実施されています。[田邉正:国土地理院の標石「地図中心」437号 日本地図センター 2009.2 p9]
参謀本部の三角点はつぎの平均密度と平均辺長の基準で設置されています。
平均密度 平均辺長
一等三角点(本点)1600平方キロメートルに1点 45キロメートル
一等三角点(補点) 800平方キロメートルに1点 25キロメートル
二等三角点 8平方キロメートルに1点 8キロメートル
三等三角点 8平方キロメートルに1点 4キロメートル
(参考 第二次大戦後設置)
四等三角点 2平方キロメートルに1点 1.5キロメートル
このように各等三角点は全国に等密度に設置され水平位置の精度は等級にかかわらず、おおむね等しく誤差が10センチメートル程度になるよう等級ごとに測角精度が定められています。
樺太、台湾などを除き国土の大部分の一等三角測量は1913年(大正2)に終了しました。この時点で一等三角点(本点)は約330点ありましたが、これを15の三角網に分けられました。三角点が多くなると観測結果からそれぞれの辺長や角などを求める網平均計算が非常に複雑になるからです。当時は対数表と算盤だけで計算をしました。それぞれの三角網には基線が1本の割合で設けてあり、いくつかの三角点を介して、つぎの三角網の基線と連係されています。ひとつの三角網からつぎの三角網の計算に移るときは三角網間の境界は共通点になり、つぎの三角網の与点(既知点)となるので全体としてひとつの統一された三角網になっているのです。
1917年(大正6)には二等三角測量は終り三等は3年後に終了しています。総設置点数は一等本点は330、同補点は637、二等は5,055点、三等は32,772、計38,794点になりました。これらの数値は現状とほとんど変わりません。
初期の測量成果は明治成果と呼ばれます。1915年(大正4)からは北方諸島(国後島、択捉島)で一等三角測量が実施されています。一等三角測量の三角網はつぎの区分(名称と測量年)により設定されています。名称は旧国名の組み合わせで、たとえば武遠三角網は武蔵國にある相模野基線から出発して遠江(とおとうみ)國にある三方原基線に閉合しています。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p80]
名称 測量年
T 武遠三角網 1884(明治17)〜1891*
U 三丹三角網 1885(明治18)〜1888*
V 摂讃三角網 1884(明治17)〜1896*
W 丹伯三角網 1887(明治20)〜1889
X 阿筑三角網 1890(明治23)〜1908
Y 筑隅三角網 1892(明治25)〜1907
Z 常羽三角網 1893(明治26)〜1894
[ 美信三角網 1895(明治28)〜1898
\ 羽越三角網 1894(明治27)〜1899
] 奥羽三角網 1900(明治33)〜1901
]T 奥石三角網 1896(明治29)〜1906
]U 石根三角網 1903(明治36)〜1908
]V 石北三角網 1908(明治41)〜1909
]W 隅仲三角網 1912(明治45)〜1913
]X 千島三角網 1915(大正 4)*
]Y 宜浦三角網 1914(大正 3)〜1917
]Z 埔鳳三角網 1916(大正 5)〜1918*
][ 宜花三角網 1920(大正 9)
]\ 鳳花三角網 1919(大正 8)〜1920*
]] 宗豊三角網 1923(大正12)〜1924*
]]T 豊敷三角網 1926(昭和 1)〜1927*
]]U 国境三角網 1927(昭和 2)〜1932
]Y以降は台湾や樺太が含まれた地域です。*印の測量年は資料により多少異なりますが「測量・地図百年史」によりました。
初期の一等三角測量の平均計算において、基準方向である零方向に補正量を施さないという不備をおかしたまま網平均計算が行われました。零方向の方向角(zero angle)に含まれる標定誤差(零方向補正、zero correctionともいいます)を無視したものです。
実際の観測では、まず目標の基準方向とする第1方向を視準し経緯儀の水平目盛盤を回転させ概ね0度0分0秒に近い位置で目盛盤を固定します。0秒ぴたりに合わすことは不可能です。そのあとまず第1方向の目盛りを読みとり、ついで第2方向を視準し目盛りを読みとります。したがって零方向の方位角には標定誤差が含まれているのですが、これを無視していたわけです。
しかし、大正時代になってから陸地測量師杉山正治の指摘によりこの不備を正した網平均計算がされるようになり、標定誤差が不備のままの成果を「実用成果」、正した成果を「学術成果」と称されました。実用成果は基本測量や公共測量に広く利用され学術成果は地殻変動の解析など学術分野に利用されました。[藤井陽一郎:陸地測量部測地事業の「実用成果」と「学術成果」測地資料 第5巻 国土地理院測地部 1979 p15][田島稔、小牧和雄:最小二乗法と測量網平均の基礎 東洋書店 2001 p180]
一等三角測量は一等三角点の設置された1883年(明治16)から1915年(大正4)にされていますが、この第1回目の測量成果は「明治成果」(または旧成果)と呼ばれています。第2回目は約30年後の1943年(昭和18)から1967年(昭和42)にされその成果は「昭和成果」(または新成果)と呼ばれていました。つづいて第3回目が1968年(昭和43)から1973年(昭和48)まで行われ、これが明治から踏襲された方式による測量の最後になりました。
三角点標石
1890年(明治23)に陸地測量標条例によって三角点の標石も規格ができましたが、初期に埋設された標石は現地調達されているものも多く材質も異なっています。標石の材料としては小豆島産や三州産(愛知県岡崎)などの花崗岩がつかわれていましたが近江産、伊豆國産の花崗岩と点の記に記載されたものもあります。また花崗岩以外に凝灰岩、安山岩などや地方通称の荒水石、千種石などといったものもあります。
小豆島産の花崗岩が選定されたのは大阪城築城のため使用されたように美観、耐久が優れており埋蔵が豊富なことによるものです。1883年(明治16)に参謀本部の田坂虎之助大尉が企画し当時小豆島の土庄村長でもあった幸島覚治、香川石材店主がこれを受けたものです。親子3代にわたり海外で使用される分も含め全部製作されました。その後、三州(岡崎)産のものも採用したためクレームがあったようです。1896年(明治29)には陸地測量部三角科に標石委員を設けて一括して調達することになりました。戦後は四等三角点標石が多くなり、これも香川石材が製作しましたが1975年(昭和50)頃から香川石材は廃業し小豆島土庄町の四国石材にかわり1989年頃には年間1000組の四等三角点を作成しています。1982年(昭和57)頃、1年間だけ北九州市の石材業者で製造されたことがあるそうです。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p180−181][陸地測量部:陸地測量部沿革史 1922 p137(明治29年の事績)][大瀧茂:標石・杭について 「測量」 日本測量協会 1989.8 p59−64]
明治時代と近年の標石を比べると苔むした具合や字体など明治の方が風格があります。標石は明治時代から戦後しばらくまで石工職人によって一本ずつ手作業で製作、刻字されましたが近年はゴム板にカッターナイフなどで字型をくり抜き型紙(ステンシル)にして、それを整形された標石に被せてサンドブラスト(細砂をジェットで吹きつけ)で刻字します。
右の写真は明治時代と近年の標石の典型例です。前者は京都、岩屋山にある三等三角点「岩谷」5235−55−6601で1903年(明治36)に埋設されたもので後者は奈良、二上山にある三等三角点「女岳」5135−65−2401で1993年(平成5)に柱石交換をされた新しいものです。標石の何等三角点という文字は原則として南面にいれることになっていますが三等以上で原則どおりになっているのは70パーセント程度です。[古市進:三角点の向きについて 「山」755号 日本山岳会 2008.4 p10]
私の学生時代に父から三角点標石の文字はいずれも南に向けてあり、これは苔類の侵蝕から保護するためであることを聞かされました。 [柴崎芳博:一測量官の生涯 「ケルン」4 朋文堂 1959 p39]
三角点の位置での標高ですが、どのような標石でも上面の十字の窪んだところではなく上平面のところが測量位置になります。
戦後は何等三角点という文字以外に東面に「基本」、西面に「国地院」、地理調査所時代のものは「地理調」という文字なども入っています。「基本」は国土地理院が主体となって行う測量で測量法で定められた「基本測量」を意味します。
盤石と下方盤石
標石は柱石、盤石からなりたち柱石は上部約15センチメートルを地上に露出するように埋設します。地中60センチメートル程度埋まっておりその下に盤石があります。盤石にも十字が刻まれ柱石の十字交点からの鉛直線に一致するよう埋設してあり柱石が万一消失したときに復元することができます。1900年(明治33)から一等三角点については盤石の直下にさらに下方盤石の設置が規定されました。下方盤石は、もともと上下おなじ大きさでしたが軽量化をはかるため1910年(明治43)から小型化されました。この写真は「四国石材」の展示品を許可を得て撮影したものです。
写真の盤石は谷川岳の三等三角点「薬師岳」5538−17−9401のものです。このように盤石まで露出してしまった場合は三角点の復元は不可能です。
山岳地帯など地盤が強固な岩石であるような場合は盤石は設置されないこともあります。三等三角点「萌礼牛」6645−32−1501の点の記によると「盤石ヲ埋定セズ大ナル天然岩石上ヲ水平面ニナシ+ヲ刻シ柱石ヲ埋定ス」となっています。
標石本体の重さは一等三角点標石で90キログラム、盤石は45キログラム(二、三等では標石65キログラム、盤石30キログラム、四等(第二次大戦後)では40キログラム、盤石20キログラム)あり険しく高い山へ人力で担ぎ上げるのは大変だったと想像されます。
明治30年代には標石設置に要した経費と日数はおおよそ一等三角点で524円、36日二等三角点79円、10日、三等三角点34円、5日であったそうです。[陸地測量部:陸地測量部沿革史・明治36年 1922]100年前からの物価上昇率(賃金)は7万倍として標石1個の設置に数百万円から数千万円かかったことになります。[陸地測量部:陸地測量部沿革史 1922 p179(明治36年の事績)][経済企画庁物価局:公共料金ハンドブック 経済企画協会 1996 p6]
また柱石を保護するために標石の周囲に2〜4個の保護石(かつては防衝石ともいわれました)を埋設したりコンクリートで固めたりします。都心部など、必要な場合は柱石を地下に設置しその上に蓋石(がいせき、ふた)をのせることもあります。写真の保護石の例は宇都宮の一等三角点「八幡山」5439−67−8101です。また蓋石の例は東京の三等三角点「南千住」5339−46−7401です。
四等・五等三角点
四等三角点は戦前は三等三角測量のなかで臨時に設けられ標石は設置されませんでした。三角点設置時にその三角点上で観測を行わずに近傍の三角点からの観測(前方交会法とよばれています)により位置を求めた三角点です。新田次郎の小説「剱岳 点の記」で有名になった剱岳の測量では陸地測量部が三等三角点の設置を狙って挑んだのですが結果して四等になってしまいました。戦後、国土調査事業の一環として土地の境界や面積を明確にするため地籍測量がおこなわれましたが四等三角点があらたに制定され恒久的な標石や金属標が設けられ点の記も作成してあります。
五等三角点という三角点が出現したのは1899年(明治32)です。陸地測量部沿革史の明治32年のところにつぎの記述があります。
海中ノ小岩礁ノ最高頂ヲ觀測シ其ノ概略位置及高程ヲ算定シ之ヲ五等三角點ト稱スルコト尋テ市街地ノ高塔等亦之ニ準スルコトニ定メタリ [陸地測量部:陸地測量部沿革史 1922 p160−161(明治36年の事績)]
現在、五等三角点の新設はされませんが残存しているものが数ヶ所あります。国土地理院のデータベース上では5ヶ所、そのうち沖縄で3ヶ所ありいずれも離島です。たとえば渡嘉敷村の五等三角点「ハテ島」3927−23−8601などです。沖縄が本土復帰した1972年(昭和47)以前に設置されましたが図根点(図等三角点)といわれ地図測量の過程で基準点の不足を補うために便宜的に設けられたものと同等と考えられます。綾部市には五等三角点「記念碑」5235−71−7701、御坊市には同「鰹島」5035−61−2101もありますが「亡失」(綾部市の標石は移設残存)となっています。福岡県八女郡下廣川村にある同「鉄塔」4930−64−7201の点の記を見るともともと五等三角点となっていたのを線で消して図根三角点に、また標石はなく「本点は高圧送電鉄塔にて視点は頂上の中央部とす 鉄塔番號−37号」となっていました。そのほか1946年(昭和21)ころ東京で戦災復興測量が行われたときに五等三角点として火の見櫓や風呂屋の煙突までも多数設定されましたが標石はないようです。
小三角点
五等三角点のほか、三角点と名前のつく変わりものの測量標石では小三角点があります。1911年(明治44)北海道庁から陸地測量部に要請があり設置された基準点で渡島半島南部(函館の西)に30数点ありました。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p178]
現在もまだ数点残存しており国土地理院のデータベースでは「小等三角点」として整理されています。わたしは木古内町の山中で1ヶ所、小三角点「上山崎」6240−43−1401を見つけました。標石の大きさは一辺15センチメートルの角柱で地上高は22センチメートルあります。刻字はなく上面の+印は中心部だけでなく、ほぼ東西、南北方向の相対する辺間全長にわたり入っています。灰色をした岩石で水をかけると黒くなり安山岩と思われます。西面は全体が大きく欠損し北東角も5センチメートル程度欠損していました。
準三等三角点
かつて準三等三角点というのがありましたが現在この用語は使用されていません。準三等三角点の標石は三等三角点が使用されており外見上判別できませんが古い成果摘要には「其ノ精度ハ三等三角點に次クモノトス」と記述があります。三角点設置時にその三角点上で観測を行わずに近傍の三角点から前方交会法により位置を求めました。京都市内の三等三角点「御苑」5235−46−1101の場合、御所という特殊事情のため覘標の櫓が建てられず準三等三角点になりました。準三等三角点は関東地方には多数あります。[陸地測量部:三角及水準測量成果摘要 六巻 1917 p45]
変わった三角点標石
三角点標石は形状、寸法、刻字などが規格化されていますが1890年(明治23)に陸地測量標条例が制定される以前の初期の標石や、そのほか諸般の事情で規格に合致しない標石は多く見られます。特殊な例としては皇居東御苑にある三等三角点「本丸」5339−46−2001では旧天守台の石垣に直接+印と「三等三角點陸地測量部」と刻字されています。通常は遠くから蓋石しか見ることができません。また大雪山系の緑岳(松浦岳)にある三等三角点「南大石狩」6542−37−7301は標石を用いず自然石に「三等三角点 陸測」と刻字されていると点の記に載っていますが2006年(平成18)時点では不明になっています。
×印の黒法師岳
点名:黒法師岳
地図:寸又峡温泉
三角点標石の上面には、ふつう中心を示す+印が彫られ東西南北の方位を示していますが例外もあります。右上の写真は南アルプス深南部(静岡県)の黒法師岳にある一等三角点「黒法師岳」5238−60−3201ですが+印でなく×印になっています。この三角点は1894年(明治27)館潔彦陸地測量師により選定され翌年、古田盛作陸地測量手により標石埋定されていますが1905年(明治38)に改埋された記録があります。改埋のときに標石が取替えられたかどうかは不明です。
矢印の陣馬平山
点名:陣馬平
地図:信濃中条
長野市の陣馬平山にある一等三角点「陣馬平」5438−70−7601は一見なんの変哲もない三角点です。しかし+印のところの腐葉土を取り除き洗い流してみると一画6.5センチメートルの十字の端、4ヶ所がそれぞれV字形に長さ8ミリメートル程度切り込まれ矢の後端部の矢羽のようになっています。末端のVの開きは約1センチメートルです。なぜこのような形状になったのか記録はありません。
+印の鮮明な篠山三嶽
点名:御岳山
地図:宮田
篠山市の北部、多紀連山にある三嶽(みたけ)の一等三角点「三嶽」5235−51−4901は典型的な一等三角点標石ですが上面の+印は深くV字形に鮮明に彫られています。材質は花崗岩でなく凝灰岩と思われます。
+印の彫りが深い鳥取大将山
点名:大将山
地図:倉吉
JR倉吉の北西約5キロメートル、東伯郡北栄町大字曲字大将寺山にある一等三角点「大将山」5333−16−6401です。この三角点標石の大きさは一辺18センチメートルで標準の一等三角点ですが上面の+印は一画6.5センチメートルあり深く彫りこまれています。深さはおおよそ1.5センチメートルです。
+印が大きい愛知蓬莱寺山
点名:瑠璃山
地図:三河大野
愛知県新城市の北、鳳来寺山頂にある三等三角点「瑠璃山」5237−34−7601です。この三角点標石は標準型の一辺15センチメートルの角柱ですが上面の+刻印は一画10センチメートルの特大で上面の縁が全周にわたり損傷しているため+印が一層大きく見えました。盤石も一部が露出していました。
異字体の十種ヶ峰
点名:徳佐ヶ峰
地図:十種ヶ峰
山口と島根の県境にある一等三角点「徳佐ヶ峰」5151−55−2501です。この三角点標石の刻字は細い毛筆体で彫られており、「三角點」の「角」の文字も「々」の下が「用」になっています。初期の点の記によれば1890年(明治23)に高井鷹三陸軍工兵曹長により標石が埋定されたことになっていますが、現存の標石が当時のものかは不明です。
縁取りされた弓削豊島
地図:魚島
弓削豊島(ゆげとよしま)は愛媛県上島町にある瀬戸内海の小島ですが二等三角点「豊島」5133−22−7101があります。標石には上面と四側面に縁取りがあり刻字は北面に右書きで「二等」、縦書きで「三角點」(點は「里」と「占」両方にかかるように下に四つ点)、東西の一辺16、南北の一辺14.5センチメートルと長方形、上面十字の一画は5.5センチメートルで縁取りは端から幅1センチメートルです。豊島には「豊島石」といわれる良質の花崗岩を産出し1877年(明治10)頃から採石が始まりました。三角点も「豊島石」現地で加工されたかもしれません。
座り心地のよい晃石山
点名:晃石山
地図:栃木
栃木市近郊にある一等三角点「晃石山」5439−45−2401です。標石は一等三角点ですが柱石部の一辺が21センチメートル、柱部分の高さは18センチメートルあります。一等三角点の規格は一辺18センチメートル、高さ21センチメートルが標準になっていますから上面が広く座り心地も快適です。明治後期に設置されたとき、辺長と高さを取り違ったのかもしれません。
面取りの一事例、高尾山
点名:高尾山
地図:与瀬
三角点標石は上面、側面が隅切りされています。ここに載せたものは二等三角点「高尾山」5339−31−4901です。東京近郊の一等三角点では、このような事例を稀に見ることがありますが二等三角点としては珍しいものです。
丸みのある上面、泉山
(いずみがせん)
点名:泉ヶ山
地図:奥津
岡山県にある一等三角点「泉ヶ山」5233−67−3601です。この標石は一辺19センチメートルで、地上高さ13センチメートルの角柱ですが上面の四辺から側面にかけて丸みのある隅切りがあります。丸みの半径は3センチメートル程度です。このように極端に大きい隅切りがある標石は珍しいものです。
異字体の一事例、千丈寺山
点名:千丈寺山
地図:藍本
写真上は京都の三等三角点「芦生」5235−75−8901でよく見かける明治時代の典型的な標石の例です。「三角點」の「角」は「々」に「肉」を組み合わせたような字体、「點」は「里」と「占」の両方の下に「黙」のように四ッ点があります。また「等」の「竹」冠(かんむり)にかわり「草」冠の旧字体で「+」が2つ横に並んだような冠のものもあります。これらは現在、常用されている漢字にはありませんが変形の多い篆書体(てんしょたい)に近いもので古く中国から伝わり印判や石碑の篆刻(てんこく)にはよくつかわれています。いずれの字体も「五體字類」には例示があります。[法書會編輯部纂:五體字類 西東書房 1916 等:p380、角:p475、點:p608]
しかし写真下の兵庫、三田市近郊の一等三角点「千丈寺山」5235−31−5701は「點」の文字どおり、へんが「黒」、つくりが「占」になっています。このような事例は全国で稀に見ることができます。また戦後の四等三角点でも、このような刻字が見られます。
測標は覘標(てんぴょう)ともいい普通測標と高測標があります。普通測標は観測の目標としての目印で、高測標は目標とともに観測する位置とすることを目的に三角点標石上に建てられる櫓(やぐら)で相手の三角点が見通せる高さのものを建て、ときには30メートル位のものもあります。戦前の一等三角測量では測標の高さ47メートルが最高であったようです。一等三角点の測標に必要な面積は9坪(1坪は3.3平方メートル)でそのうち1坪は標石の敷地になりますが測標の高さによって60坪以上必要な場合もあります。[陸地測量部三角科:測地便覧 昭和14年度版 陸地測量部 1939 p106][日本測量協会:測標の昨日・今日・明日「測量」1992.10 p61−63(阿部馨氏の話)]
高測標は経緯儀などの観測器械をのせる机板(きはん)と呼ばれるテーブルと観測者や手簿者(記録員)がのるステージで構成されます。ステージは人がのったときの振動がテーブルに伝わらないように、それぞれ地表から独立した二重構造になっています。テーブルは幅45センチメートル厚さ15センチメートルの八角形の板で上にのせる測量器械は石膏で固定します。
一等三角測量では懸柱式高測標を建てます。観測器械をのせる懸柱測器架と人がのる懸柱方錐形覘標の二つの櫓から構成されています。また櫓の上部には覆板といわれる板に白、黒の塗装をして観測の相手から目立つようにします。覆板は一等三角測量では9段が標準になっています。戦後は三脚式高測標というのが採用されましたが、やはり器械をのせる主部と人がのる属部(櫓柱)から構成されています。
わたしは1961年(昭和36)11月に滋賀北西部の百里ヶ岳の一等三角点の櫓に登ったことがありますが山の名前のとおり遠くまで見通すことができました。冠雪した白山が望めたのを憶えています。写真は、つくば市にある国土地理院の「地球ひろば」というところにある展示用の櫓です。この下には三角点の標石がありますが2002年(平成14)に再訪したときには二等三角点の方は標石のみで測標はなくなっていました。
図は京都の有名な愛宕山のすぐ西にある地蔵山の一等三角点が1886年(明治19)に設置されたときの覘標です。初期の点の記に添付されていました。当時は陸軍の工兵隊が建設しました。
1974年(昭和49)頃から観測器械として経緯儀にかわり光波測距儀が使用されました。測標(やぐら)は樹木や障害物の影響を排して視通を確保し、また観測器械を安定設置するため建設するものですから、この時代でも測標は建設されました。しかし近年GPS(Global Positioning System 全地球測位システム)を利用した測量が採用され障害物のあるところではGPS受信機のアンテナをポールなど簡易な道具で高く上げればよいので測標の必要はなくなりつつあります。
点の記
それぞれの三角点には戸籍に相当する点の記があります。一等三角点の記、二等三角点の記、三等三角点の記などがあり永久保存資料として保管されています。つくば市の国土地理院か各地方測量部の測量成果閲覧室で閲覧とコピーサービスが利用できます。閲覧のしかたは先ず五万分の一の基準点配点図で基準点名(必ずしも山名になっていません)と基準点コードを探します。つぎにこのコードをたよりに点の記を調べると所在地、所有者、選点と埋標などの年月日、担当者名、自動車到達地点、歩道状況、徒歩時間と距離、三角点周囲の状況、付近要図などが記載されており、まさに三角点の戸籍台帳であることがわかります。国土地理院のホームページ「基準点成果等閲覧サービス」でもしらべることができます。ホームページからダウンロードしたものは単なる資料としてしか使用できませんが有料でコピーしたものは「謄本」と日付の印が押され原本と相違ないことが公に認められます。ついでながら各三角点での測量結果である三角点成果表では緯度(Bと表示されている場合はドイツ語のBreiteの略です)、経度(Lと表示、Langeの略ですがaにはウムラウト¨がついています)、標高などを知ることができます。なお測量法施行令第9条(測量成果等の謄本又は抄本の交付手数料)では三角点成果表は「測量成果」、点の記は「測量記録」として複製に要する実費が定められています。閲覧については測量成果及び測量記録閲覧規程(昭和24年通達第1号)で細部が決められています。
閲覧室やホームページで見られるのは原則として現時点での点の記です。ところがわたしが興味があるのは明治時代の初期の点の記です。初期の点の記や終戦前後の混乱期の点の記はつくばの本院に原本が地方測量部にはコピーがあります。これらの古い点の記はすべての三角点のものが揃っているわけではなく脱落しているのもあります。また現時世から見れば不適切な表現もあります。係の人にお願いすれば見せてもらうことができますが編集が測量官ごとに別冊になっていたり順序もばらばらで目的とする点の記を検索するのは相当骨が折れます。わたしは本院と近畿地方測量部へ閲覧に行きましたが係の人はとても親切で検索に協力していただきました。このサービスは将来とも大切にしたい思いますので一度に多くのコピーなど公務の支障になると思われることは自粛しましょう。
写真は1886年(明治19)の一等三角点の記です。位置は京都の愛宕山の奥にある地蔵山で現存していますが標石は取り替えられています。なにしろ京都市という市制ができる前の時代ですから地名も山城国原村になっています。「撰定者」陸軍省十等出仕 三原昌、「観測者」陸軍六等技師 矢島守一、「覘標の構造者」陸軍工兵曹長 高井鷹三(写真の点の記には記載されていませんが、別の点の記で地蔵山の「標石の構造者」は陸軍六等技手 館潔彦ということがわかりました。)などといった物々しい官職と名前が載っています。その他、杉丸太1本を17銭で調達したとか、傭夫を日給16銭で雇用したことまで記録されています。点の記の記載項目は時代によって異なりますが写真の例では上にあげた氏名のほかつぎの項目があります。
□ 點の名称、國名、點ノ属スル鎖或ハ網
□ 地名地種及所有者ノ明細、觀測スヘキ方向、撰定ノ年月、觀測ノ年月
□ 標石 構造法及石質、地上標ノ長サ、構造ノ年月
□ 覘標 構造法、構造ノ年月、覘標ノ高サ (覘標は「てんぴょう」と読む)
□ 點ニ到ル順路、其険夷、町村ヨリノ距離
□ 運搬ノ便否、其手段
□ 材料ノ給否、準備ノ手段、其價額
□ 傭役ノ便否、徴集ノ手段、其給料
□ 角測量間棲宿ノ方法
□ 給養品ヲ取ルノ地、其距離
□ 飲料水ヲ○ムノ地、其距離 (○印はテへんに邑という漢字、「くむ」と読む)
□ 障碍樹木ノ有無、伐採ノ数、其樹種
□ 角測量ニ不可ナルノ季節、其原因
□ 備考
点の記には最初に点の名称がでてきますが、この点名というのは必ずしも山名や地名と一致しません。あくまで初期の段階で他の点と区別するために名づけたものがそのまま残っているのです。たとえば点名「穂高岳」は現在の前穂高岳、点名「前穂高岳」は現在の西穂高岳、点名「奥穂高岳」は現在の涸沢岳、点名「北穂高岳」は現在の南岳を表しています。これら穂高の現在の山名は1924年(大正13)に慶応義塾大学山岳部の大島亮吉さんらが同部会誌に載せられたものが定着しました。[大島亮吉、青木勝:穂高岳スキー登山 登高行 第五年 十週年紀念號 慶應義塾體育會山岳部 1924 p29]
また白馬岳の点名は「白馬」ですが三角点の設置当時はまだ白馬岳という名称がなく田植え時期に残雪が馬の形になることからこれを「代馬」(しろうま)と地元で呼んでいたので陸地測量師の館潔彦さんが「白馬」としたそうです。初期の点の記を調べますと後に点名を変えているものも見うけられます。たとえば大阪南の点名「大浜公園」は旧点名「御影山(俗称 困窮山)」が移設されたときに変更されました。さらに全国には同じ点名で位置が異なっているものもあります。また点名に測站(そくてん)という語をつけて三角点を表している場合もあります。たとえば京都府最高峰の皆子山の三角点は「葛川測站」といいます。
三角点名称のつけ方の基準はつぎのとおりです。
測點ノ名稱ハ成ル可ク普通ノ俗稱ヲ用フ可シ假令ハ富士山頂劍ヶ峯ニアル測點ヲ直チニ富士山ト命名(中略)スルカ如シ (以下略)[陸地測量部:三角測量法式草案 1901 p62]
三角點ノ名稱ハ其地方ニ於テ成ルヘク一般ニ通用スル所ノ字(アザ)若クハ俗稱ニシテ字数ノ多カラサルモノヲ撰フベシ 北海道、臺湾、琉球等ニアリテハ古来用フル所ノ土音ノ名稱ニシテ未タ漢字ノ定マラサルモノニハ讀ミ易ク雅致アル字ヲ適用スヘク其ノ全ク名稱ナキ土地ニ在テハ近傍ノ山嶽、河流、部落等ニ從ヒ適当ナル名稱ヲ撰フベシ [陸地測量部:一等三角測量實行法 上 1917 p22]
現行の点の記は横書きになり内容もかなり簡略化されてます。点の記に「更新」とあるものは成果の値を更新したのではなく、点の記の内容について現在の状況に更新したという意味です。三角点の成果が変わった場合には成果表の備考欄等に更新年月とともに成果更新の理由、再設、移転、改測、改算、低下改埋、高上改埋、柱石交換が明記されます。
三角点の番号
三角点には一点づつ番号がついています。目的によっていろんな番号があり一つの三角点にいくつかの番号が重複してつけられています。なかには標石に刻字されている場合もあります。
1887年(明治20)頃からの点の記にはだいたい冠字番号というのが付けてあります。たとえば「山第19号」とか「高第29号」などという符合です。数字の前の冠字は三角点を選点した測量官の略号で現在もつづいています。冠字を持つ測量官は「冠族」(かんむりぞく)と呼ばれることもあるそうですが現在はきわめて少人数になっています。原則として測量官の姓の頭字になっていますが1894年(明治27)から3年間ほどの間は萬葉かな「以呂波仁保邊登知利奴留・・・」がつかわれました。冠字は現在までに約1100人の測量官に付与され「冠字原簿」に登録されています。また測量会社に付与される冠字は○囲みがされています。1887年(明治20)頃以前の点の記には冠字番号はありません。[豊田友夫:陸地測量師館潔彦「測量」 日本測量協会 2001.2 p53]
また北海道では「No.」と4桁の数字が刻字されている三角点標石があります。これは1909年(明治42)に定められ二、三等三角点に付されました。北海道は当時一つの村や字が広域で人家も少なく同一字(あざ)のなかに2箇所以上の三角点が設置されたときの混同を防ぐためです。一等三角点は、すでに埋設が終わったあとであるのと間隔が長く混同をおこすことはないと判断されました。 等級を問わず設置年度の早い順に連番がつけられたようです。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 1922 p226(明治42年の事績)]