初期の測量逸話


初期の測量では測量技術者はたいへんな困難に遭遇しました。とくに山岳地の測量では三角点へいたる道筋さえ定かでなく地元の猟師や案内人の協力を得ました。また地図作成でも内務省から参謀本部に主体が移行する過程で事件がありました。これらは、ほとんど記録に残っていませんが小説や紀行文のなかで、うかがうことができます。

地図漏洩疑惑事件

1881(明治14)に参謀本部で大事件が発生しています。当時の軍港を含む一部の実測図が軍人、画工により清国公使館に密売されたというものです。実際は公知された地図であり外部流失があったとしても全く問題はなく部内で清国向けの地図が作成されていたことも黙認されていたようです。しかし当時の関係者である陸軍少佐木村信卿(きむら・のぶあき1840〜1906)などが憲兵隊に拘束されます。軍事裁判により木村は閉門(軟禁か)、裁判当時は「非職」でありましたが、のち免職されています。木村は語学に通じておりフランス語はフランス公使館司祭メルメ・デ・カション(l'Abbe Mermet de Cachon)に、中国語は清国公使館参賛官(一等書記官相当か)黄遵憲に学んでいました。カションは当時の駐日公使館、公使レオン・ロッシュ( Leon Roches 1809〜1901)のもとで司祭兼通訳であり、また黄遵憲は当時、清国における有数の近代詩人で初代駐日公使、何如璋(か・じょしょう)のもとで日本についての研究も相当しており地図売却は黄の希望によるものとされています。

文献によると1881年(明治14)に地図漏洩疑惑事件に関して参謀本部の官吏が数人、謎の死を遂げていますが詳しいことは記述されていません。同年2月から参謀本部会計軍吏補服部道門が庁舎から転落死亡、製図御用掛大島宗美の自殺などがありそのご八等出仕の川上冬崖の謎の死、十一等出仕渋江信夫の獄中自殺へと発展していきます。[師橋辰夫、佐藤p:明治初期測量史試論「地図」19巻1号 日本国際地図学会 1981 p33−34][佐藤p:陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟4「地図」30巻1号 日本国際地図学会 1992 p43][師橋辰夫:明治初期洋画壇と陸軍参謀局 「古地図研究」百号記念論集 日本地図資料協会 1978 p529−561]

川上冬崖(かわかみ・とうがい 1827〜1881 万之丞、寛ともいいます)はわが国における西洋画の草分けといわれる存在でしたが西洋画そのものが明治初期には世間に認められず一たん文部省に入省しましたが内務省、ついで参謀本部に転じています。当時、わが国の陸軍軍制は江戸幕府からの継続でフランス式を採用しており1872年(明治5)には陸軍省お雇いフランス人としてルボン砲兵大尉(のち勲一等旭日大綬章を受ける)など軍事顧問が多数来日しています。地図もフランス式で高度な細密画法や整飾部に要所のスケッチが描く必要があったため多くの画工が地図作成に採用されました。このなかの頂点が川上でした。

川上は熱海の静養先で首吊り自殺をしたとわれています。一説には全身に朱を塗り発狂したとも伝えられています。また東京下谷の画室で縊死(いし)という説もあります。川上の死は当時の新聞にも報道され事実ですが事件そのものは闇に葬られたままでした。これを明るみにしたのが1974年(昭和49)第72回直木賞受賞作品、井出孫六の「アトラス伝説」です。井出は出版後、元海上保安庁職員の斎藤敏夫さんの指摘で調査不足に気づき追加資料「黄遵憲事件覚書」を作成しています。1987年(昭和62)にはNHK歴史ドキュメントで「地図は国家なり〜明治14年・参謀本部の密命」というタイトルで放映されました。当時の地図測量については陸軍はフランス式、海軍はイギリス式によって整備がすすめられていましたが陸軍のほうがフランス式からドイツ式に変わろうとしていた時期で山縣有朋など陸軍上層部によるフランス式関係者排斥の陰謀ではないかとうかがえます。[井出孫六:アトラス伝説  文藝春秋 1981 p147−234][井出孫六:明治・取材の旅 黄遵憲事件覚書 現代史出版会 1977 p5−77][堤啓介:地図は国家なり NHK歴史ドキュメント 8 日本放送出版協会 1988 p58−88][滝悌三:日本近代美術事件史 川上冬崖の死「日経新聞」1986.3.1〜6.7この間14回連載 日本経済新聞 1986][高木菊三郎:川上冬崖「測量」日本測量協会 1955.12 複写時ページ脱落]

1877年(明治10)陸軍参謀局から発行された百十六万分一「大日本全圖」(国土地理院蔵)はこの事件の当事者である木村信卿が編集、渋江信夫による作図ですが伊能忠敬の影響を受けた明治以降のわが国の代表的な地図です。また1880年(明治13)〜1886年(明治19)に測量された第一軍管地方二万分一迅速測図の原図921枚ははフランス式地図といわれ彩色と文字が華麗ですが地図の欄外に「視図」といい、その土地の著名な景観や建物のスケッチが添えられたものもあり芸術性豊かな地図になっています。当時、川上冬崖をはじめ多くの画家が測量局に採用されたことが理解できます。[長岡正利:明治前期の手書彩色関東実測図 「国土地理院時報」74 1991 p22−32]

前穂高岳での滑落

1893年(明治26)8月館潔彦(たて・きよひこ)陸地測量師が地元の猟師上条嘉門次の案内で一等三角点「穂高岳」5437−35−3301の選点のため前穂高岳(当時は「穂高岳」と呼ばれた)の頂上をきわめ下山の途中、頂上付近の岩場で足を滑らせ18メートルほど転落したのですが奇跡的に助かりました。この数日後、日本アルプスの父といわれるイギリスの登山家、宣教師ウエストン(Walter Weston 1861〜1940)は前穂高岳へ登頂しています。ウエストンの著書にはつぎのように書かれています。

A fortnight before, he and another hunter had been with a Government official (a surveyor in the War Department), who then succeeded in making the first ascent of the highest point. At difficult spot near the top the man slipped and was sent flying downwards for sixty feet, bumping from rock to rock with a violence that made his survival matter of marvel.
(interspace)
Before 1・30 we were on the highest pinnacle. Driven into a crack in the rock I found a small stake, which marked te visit of the War Office sureyor some weeks before. As I looked down the rocks, where Kamonji pointed out the line of his fall, it seemed incredible the man could have survived. The marvel was that the aforsaid stake did not mark the double event, and stand as a memorial of his destruction as well as a token of triumph.
[Walter Weston:Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps. John Murrray, London 1896 p173、181]

二週間前に、彼ともう一人の猟師が政府の官吏(陸軍省の測量技師)といっしょに登ったが、この役人が最高地点への最初の登頂に成功した。彼は頂上付近の難所で足を滑らせて、岩から岩へはげしくぶつかりながら、ほうり出されるように60フィートも墜落したが、奇跡的に命びろいをしたそうだ。
(中略)
そろそろ一時三十分というところ、山頂の尖塔(ピナクル)に達した。その岩の割れ目に、数週間前に陸軍省の測量技師が登頂を果たしたときに打ち込んだ小さな標柱が残っていた。嘉門次は技師が墜落した方角を指したが、その岩場を見ると命の助かったのが奇跡としか思えなかった。その標柱が二つの事件の記念碑、つまり彼の成功を証明すると同時に死を悼む墓標とならなかったのが不思議なくらいである。 [ウエストン著、青木枝朗訳:日本アルプスの登山と探検 岩波 1997 p181−182、191]

館潔彦は1849年(嘉永2)に桑名藩士の長男として誕生、19歳で上京し英語と数学を学んだ後、1871年(明治4)工部省測量四等少手に任官、1889年(明治22)に陸地測量部が設けられると陸地測量師となりました。1903年(明治36)退官、1927年(昭和2)77歳で亡くなりました。現役中は山岳地帯の三角測量に足跡を残し一等三角点約970点のうち263点を撰点しましたが当時は前人未踏の山が多く、しかも設備・道具に恵まれない時代だったので、その健脚に驚くとともに、大変な苦労、危険もあったと思われます。[館豊夫:私の履歴書 経済人32(日経新聞 1995年7月連載)日本経済新聞社 2004 p8(著者は館潔彦の孫、元三菱自動車社長)]

甲斐駒ヶ岳での落雷

1896年(明治29)木暮理太郎が甲斐駒登山をしたときの一等三角点「甲駒ヶ岳」5338−51−0901の様子です。

測量の櫓は四本の柱がばらばらになって風に揺れながら霧の中に立っていた。左に廻ると小屋らしいものが目に入る、訝りながら近寄ると果たして小屋であった。(中略) 重い口から語られた所に拠ると、一昨日櫓に落雷して二人の測量手が感電し、一人は即死一人は瀕死の重傷を負うたのを、昨日漸く麓へ運び下ろした、一人では予定通り仕事が捗(はかど)るまいと案じられる。ここで観測を開始したのは六年前であるが、今年蓼科山に一等三角点の覘標が建てられたので、回光信号を交換する必要から復(また)登山したのだということであった。 [木暮理太郎:山の憶い出 木曽駒と甲斐駒(昭和3年作)平凡社 1999 上p528]

陸地測量部沿革誌の明治三十年のところには

客年河野測量師外數名甲駒ヶ岳一等三角點觀測中落雷ノ爲メ傷害ヲ受ケ其ノ他作業ニ關シ死傷スルモノ數名療養料及死傷手當ヲ下附セラル [陸地測量部:陸地測量部沿革誌 陸地測量部 1922 p140]

とあり裏づけになります。また初期の点の記によれば覘標(櫓)は1891年(明治24)に設置(構造)され1895年(明治28)に修理されています。

八重山諸島 鳩間島の三角点

沖縄県の離島である八重山諸島の鳩間島での話です。初期の沖縄県離島の測量では住民のほうも大変な苦労があったようです。

中森にのぼると、西表島の景観が美しく眺められるが、民謡にうたわれた「美(かい)しゃ生(む)いたる丘(むり)ぬ蒲葵(くば)」は明治三十年ごろ測量にきた佐村某という測量技師が測量の邪魔になるということで切り倒させたために今はない。この時、部落の人たちは、この由緒ある蒲葵を守るために極力反対したというが、佐村某は「政府の命令だ」といってきかなかった。それでも誰一人蒲葵を切ろうとするものはいなかったところ、業をにやした佐村某は、みずから斧をふるって一刃入れたので、村人たちは泣く泣く切り倒したという。測量のために倒された昔の蒲葵のことは、今日では七十歳をこえるお年寄りしか知らないが.... [新川明:新南島風土記 岩波書店 2005 p111〜112(原本は「沖縄タイムス」1964〜1965連載)]

この中森という場所にある三角点は三等三角点「鳩間」3623−56−5501のようですが1920年(大正9)に設置され、さらに1985年(昭和60)に再設されているので、蒲葵を切り倒した話は三角点の設置や観測とは別件と思われます。

北海道海別岳での惨事

1917年(大正6)9月、北海道知床半島の一等三角点「海別岳」(うなべつだけ)6544−67−4001での測量では天候が悪化し風雨強く遭難一歩手前のできごとがありました。つぎのような記録があります。

吾々は愈々死を期して其處に一本の旗(信號用の)を樹て之れ迄での測量の經過を認(したた)めた手簿と、一同の遺書を手記した手帳を。他の一本の旗に包んで信號旗の基に結びつけて、只管(ひたすら)死を待ったのである。 [参謀本部技手 吉村武雄: 測量技師等十名が海別山の大遭難 武侠世界 増刷 山嶽踏破號 大正十一年七月発行 武侠世界社 1922 p197]

結局、翌日天候は回復し全員無事であったとのことです。少年向きの冒険談を掲載した雑誌であったため多少誇張した表現もありますが、当時の苦労が偲ばれます。海別岳(標高1419.4メートル)は斜里町にありますがこの三角点は1901年(明治34)に館潔彦陸地測量師により選点、標石は1903年(明治36)中村丈吉陸地測量手により埋定、観測は1906年(明治39)高橋文亮陸地測量師により行なわれています。また全国の一等三角測量は1913年(大正2)に終わっています。この事件が起こったのは1917年(大正6)のことですから海別岳周辺の二、三等三角測量のときのことと思われます。

寺田寅彦による測量の話

寺田寅彦の著作「天災と国防」には「地図を眺めて」という編があり初期の三角測量について陸地測量部の人たちがどのように苦労されたかが書かれています。代表的な高山の測量記録として劔岳の四等三角点も柴崎芳太郎測量手の名前とともに記載されています。台湾や千島も含まれており興味深いものです。[寺田寅彦:天災と国防 岩波新書 1938 p105−132 ]

また寺田寅彦随筆集のなかの「小浅間」(東京朝日新聞 1935年9月 掲載)には浅間山の火山変動観測のため陸地測量部の人たちが一等水準点で水準測量や天測、重力測定を実施していることが描かれています。当時、陸地測量部では東京大学や京都大学から受託し浅間山、三原山、阿蘇山などで水準測量を行っていました。寺田はこの随筆で陸地測量部の測夫の活躍とともに経験豊かな測夫の体験談を述べています。測夫は現在、測手と呼ばれます。

いちばん恐ろしかったのは奄美大島の中の無人の離れ島で台風に襲われたときであった。真夜中に荒波が岸をはい上がってテントの直前数メートルの所まで押し寄せたときは、もうひと波でさらわれるかと思った。そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それから長年月の後までも時々夢魔となって半夜の眠りを脅かしたそうである。 (中略) カラフトでは向こうの高みから熊に「どなられて」青くなって逃げだしたこともあるという。えらい大きな声をして二声「どなった」そうである。 [小宮豊隆編:寺田寅彦随筆集 第五巻 小浅間 岩波文庫 1948 p216(東京朝日新聞 1935年9月 掲載)]

浅間山で水準測量中に噴火

寺田寅彦の随筆「小浅間」にも描かれていますが1935年(昭和10)頃から東京大学地震研究所の委託を受けて陸地測量部が浅間山で水準測量を実施しました。沓掛から浅間山を経て小諸を回る環状の水準路線で急斜面では標尺距離を5〜6メートルにした精密水準測量でした。1939年(昭和14)、測量の最中に噴火が発生し落石に追われ逃避したことがあったようです。命がけの測量は戦地だけではなかったのです。

東前掛の斜面を登りその頂上で、この1観測で中休みしょようと話した瞬間である。ドオーンという腹にしみる音に思わず空を見上げると、不思議にもいつの間にか霧はすっかり晴れていて、何か空一面から降ってくる。「ヤッ噴火だ、逃げろ!」と叫ぶなり、レベルを肩に一気に斜面を駆け出した。2〜3歩も走るや否や、前後左右に落石の砂煙りが上る。そのうち首筋を叩かれたような衝撃をうけた。手を当てると血がついた。 (中略) 1本の標尺と途中の荷物を持った主任測手が「旦那大丈夫ですか!」と叫びながら走ってくる。とにかく全員無事だったかとほっとする。 [土橋忠則:浅間山ふんせん記 「測量」日本測量協会 1973.9 p21]

著者の土橋さんは当時、浅間山噴火の現場で実際に測量をされており實体験にもとづく記録です。


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