地理調査所の発足と戦災復旧測量


1945年(昭和20)8月30日に陸地測量部は消滅し、あらたに地理調査所が発足しました。当初は内務省国土局の傘下で陸地測量部の疎開先であった松本市郊外が根拠地でしたが1946年(昭和21)には千葉市の旧戦車学校跡地の稲毛庁舎に移転しました。

1946年(昭和21)から翌年にかけ地図再版作業と占領軍の指令による大量の調査作業がありました。1946年(昭和21)の指令作業では「日本測地基準点標石調査及び復旧に関する件」というのもあり三角点、水準点を調査して1点、1枚のカードで整理されました。また標石の位置を空中写真上に刺針表示(プリッキング)することも要求されました。しかし、これらの作業成果は日本側にも使用を許されたので戦災復興に役立ちました。

1948年(昭和23)1月、内務省解体にともない、いったん総理府建設院の付属機関となり同年7月には建設省地理調査所となりました。

復興三角点の事例1 明治神宮境内
点名:明治神宮
地図:東京西部

明治神宮の大鳥居をくぐり代々木方面に向かって本殿への分かれ道をすぎると社務所への案内板と大きく「25」と書かれた表示札のある分岐に達します。ここから北30メートルの植え込みの中に標石があります。

三角点標石はコンクリート枠に囲まれています。標石の大きさは一辺12、整形部分の高さ15センチメートルで南面は「三角點」と刻字があり等級の表示はありません。「角」の文字は明治に設置された「々」に「肉」に似た字体ではなく「々」の下は「用」になっています。「點」は古い字体で「里」と「占」の下に四つ点です。北面は「NO」と「123」が2段で刻字されています。

「昭和二十一年度測量 東京都復興三角網圖」によると三等復興三角点として戦後の東京復興に利用されました。網図には「V老(16)明治神宮」とありますが当初の点の記では「三等三角點之記」の「三」が斜線で抹消され「四」に、成果表では「W老(16)」になっています。また撰点は1947年(昭和22)になっています。点の記には標石番号が「第一二三號」とあり標石の刻字と一致します。

復興三角点の事例2 日本水準原点前
点名:三宅坂
地図:東京首部

日本水準原点から庭園の池をはさんで北50メートルほど、憲政記念館よりにマンホールに入った三角点があり鉄蓋には「四等三角点 国土地理院」と刻字されています。「三角点」の刻字の「角」の字の「々」の下が「用」に、また「点」の下が「大」で異例です。終戦直後、地理調査所が東京都の委託により設置した戦災復興のための基準点です。点の記は三等三角点の用紙で1947年(昭和22)に設置されています。

標石の大きさは一辺12センチメートルで南面は「三角點」と刻字があり等級の表示はありません。「角」は「々」に「肉」に似た古い字体でなく「點」は古い字体で「里」と「占」の下に四つ点です。北面は「NO」と「200」が2段で刻字、点の記の標石番号「第二〇〇號」と一致します。

国土地理院の発足と測量法の制定

1949年(昭和24)、あらたに測量法が制定されました。「測量の重複を除き、正確さを確保するとともに、各種測量の調整および測量制度の改善発達を図ること」を目的としたものです。1960年(昭和35)には地理調査所が国土地理院と改称され現在にいたっています。現行の測量法(測量法第十条、測量法施行規則第一条)では「永久標識」としては三角点標石、図根点標石、方位標石、水準点標石、磁気点標石、基線尺検定標石、基線標石などが定められています。「三角点標石又はこれに代る標識」としては天測点標識、子午線標、電子基準点標識なども含まれますが現在つかわれていないものもあります。また測量法では「永久標識」以外には測標、標杭を「一時標識」、標旗、仮杭を「仮設標識」といいます。

戦後の三角点標石

三角点標石は測量法では永久標識とされています。標石は原則として石ですがコンクリートや金属もあります。三角点標石の形状と寸法は測量法施行規則第1条(測量標の形状)で定められています。寸法は「おおむね次の表のとおりとする」となっており、とくに古い標石は例外もあります。

1949年(昭和24)からは四等三角点標石についての規則が制定されました。戦後は新たに一〜三等三角点が設置されることは稀で従来からある三角点の支障移設などが多いようですが四等三角点は地籍調査のため大量に設置され現在も継続しています。

旧琉球政府三角点の事例
点名:旭ヶ丘
地図:那覇

沖縄では1959年(昭和34)に琉球測量法が制定され琉球政府臨時土地調査庁が基本測量を行いました。

標柱は旧琉球政府のものでコンクリート柱ですが四等の字の反対側に縦に琉球と刻字されています。この事例は那覇市内にある四等三角点「旭ヶ丘」3927−25−5302です。戦後物資の少ない時代に設置されたもので当時の苦労が偲ばれます。

標石の軽量化

1958年(昭和33)には屋上などに設置するための金属標の使用が定められました。実際は1955年(昭和30)から使用されています。1968年(昭和43)からは一等三角点にも金属標が使われています。

また1996年(平成8)頃から炭素繊維強化コンクリートを中空にして上面に金属標を固定した軽量標識というのが四等三角点などで使われています。重さは本体のみ盤石除きで20キログラム程度です。

標識番号

近年の点の記を見ると標石(金属標)○○号という欄があります。四等三角点の場合はすべて記入されています。6桁の数字からなり標石には上下に3桁ずつ刻字されています。番号のつけ方は設置予定年度のはじめに国土地理院の地方測量部単位であらかじめ番号を割り振ります。埋標した日付の順番にはなりません。6桁のうち最初の1桁目は標石の場合が0、金属標の場合は1がつけられます。四等三角点標石は1949年(昭和24)に規則が制定され当初は各県別に頭文字を冠して県ごとの一連番号を付していましたが1954年(昭和29)からは頭文字を廃して全国一連番号になりました。

標示杭

三角点標石のそばには「基本測量」、「大切にしましょう三角点」などと書かれた白い細長い杭が立っていることがありますが、これは三角点標示杭といい一辺6センチメートルの角材で長さ1メートルのものを40センチメートル地中にいれることになっています。木製やプラスティック製のものがあります。これがあると遠くからでも三角点標石をみつけることができます。写真の例は福井県の一等三角点「野坂岳」5336−30−0201の傍にあるものです。

変わった三角点標石(第二次大戦後)

第二次大戦後の三角点標石は以前と比較すると刻字に変化があります。等級は右書きから左書きへ、また側面には「基本」「地理調」やのちには「国地院」が刻まれました。漢字の字体も「點」(四つ点が多い)から「点」に変わっています。しかし過渡期には新旧混在のものも見られます。

異字体の加古川城山
点名:志方城山
地図:加古川

兵庫、加古川市近郊の一等三角点「志方城山」5234−16−9801です。この標石は戦後、取り替えられたらしく南面は左書きの「一等」ですが「三角点」の「角」が古い三角点のように「々」の下に「肉」に似た古い字体になっています。西面には「国地院」東面は「基本」と刻字があるのは戦後の三角点と変わっていません。京都府南山城村の三ヶ岳にある三等三角点「童仙房」5235−17−6601もこれと同様に新旧の字体が混在しています。

異字体の高峠
点名:高峠
地図:武蔵府中

川崎市多摩区片平にある修廣寺の裏山にある三等三角点「高峠」5339−34−1001です。標石は花崗岩ですが表面は滑らかに磨かれて墓石のようです。刻字は毛筆体で彫られており「三等」は左書き、三角点の「角」、「点」はこのとおり新字体です。左右測面の「国地院」「基本」も同様に毛筆体で彫られています。


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