初期の河川測量
明治維新後、政府は重要な河川については直轄で治水管理を行うようになり、ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn1837〜1906)をはじめリンド(Isaac Anne Lindo 1848〜1941)、エッセル(George Arnold Escher1843〜1939)、デレーケ(Johannis de Rijke1842〜1913)、ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder1848〜1901)などのオランダから招聘したお雇い外国人の指導により測量、施工が行われました。
政府は1872年(明治5)に来日したドールンを「長工師」リンドを「二等工師」に任命しました。ドールンは土木技師であっても治水事業の経験はほとんどなかったのですが利根川、淀川の量水標の設置から業務を開始し1873年(明治6)にはオランダからドールンの推薦したエッセル、チッセン、デ・レイケなど来日し野蒜築港、淀川、木曽川、大阪港、三国港の改修、安積疏水などを実施しています。[上林好之:日本の川を甦らせた技師デ・レイケ 草思社 1999 p73]
当時河川の所管は治河使(ちがし)、民部省土木司、土木寮頭、内務卿、内務省と目まぐるしく変わりました。
河川測量は河川の災害を防ぐための治水工事をはじめ水資源利用、河川の維持管理に用いられる測量であり距離標設置のための平面測量、水準基標設置、縦断面図、横断面図作成のための高低測量、深浅測量、流量測定などです。測量標識としては距離標、水準基標(水準点)、量水標(水位標)などがあります。
距離標は河口または合流点からの距離を標示する標杭で河川の中心線に沿って100〜500メートル間隔で一般に左右岸の堤防法肩に設置され標高も正確に求められており河川の改修や管理に利用されています。距離標はかつては川の中心部を測って一丁(約109メートル)ごとに、その両岸の堤防の上に丈夫な杭を設置したので「丁杭」(ちょうぐい)と呼ばれていました。戦後、里、丁単位の表示はキロメートル単位に替わりました。現在は国土交通省公共測量作業規程で設置について定めてあり間隔は200メートルになっています。
水準基標は河川水系全体の標高の基準となる標識で既設の水準点から水準測量を行い5〜20キロメートルの間隔で、できるだけ量水標の近傍に設置します。既設の水準点は国土地理院の基本測量または公共測量により設置したものです。
量水標は河川の岸にあり水位を測る設備で水位標ともいいます。垂直に立てられた柱に目盛りが刻まれており目視または自動で読み取ります。洪水や増水の際に報告される水位はこの量水標の読取値です。
銚子 飯沼水準原標石
地図:銚子
わが国の治水事業のため1872年(明治5)に来日したオランダ人リンドは江戸川河口の堀江を起点として北に遡り関宿の北にある利根川合流点から南下して銚子に達し一部折り返すルートの水準測量を実施しました。利根川や江戸川の下流に計10ヶ所の測水標(量水標ともいわれます)設置し利根川河口にあたる銚子の飯沼観音境内に設置した標石を水準原点に定めました。水準原点の近くに量水標も設置されたようです。当時の「日本水位尺(J.P)」の原点となるものです。その後、銚子、浦安間の水準測量を行ない各所にファンステピュントといわれる基点を設けました。これらは独立した標石はすくなく住宅に打ちつけた釘などを利用しています。[内務省東京土木出張所:利根川改修沿革考(明治年間)1928]
飯沼水準原標石は飯沼観音本堂の石段下にある二十三夜満願堂の裏にフェンスに囲まれています。市当局で設置された説明板もあります。標石本体は地表面上の見える部分で14センチメートル角の石(地中本体は70センチメートル角といわれています)で表面は磨耗しており刻印などは見当たりません。さらに本体は65センチメートル角の石枠で保護されています。[中村六郎:水準原点事始 「測量」1981.3 p43]
この水準原標石は1937年(昭和12)に内務省東京土木出張所の栗原良輔技師により確認されたもので、この機会に保護のため石枠が設置されました。その後、戦災もあり忘れ去られていましたが1999年(平成11)現在の形に整備されました。[東京朝日新聞 昭和12年6月23日 千葉版(山岡光冶:訪ねてみたい地図測量史跡 古今書院 1996 に転載)][島崎武雄:堀江と銚子の水準標石 「地図中心」2008年11月号 日本地図センター p6]
浦安 清瀧神社の江戸川測水標
地図:浦安
リンドの標石の一つが「堀江の水準原標」ともいわれ浦安市にあります。地下鉄東西線浦安駅の南500メートル、堀江四丁目に清瀧神社(せいりゅうじんじゃ)があり、この本殿の西にある水神社(龍神社と額がかかっている)の鳥居の内側、祭壇の西側に残っています。標石は46センチメートル角の石中央に13センチメートル角の石が乗った状態で刻字は何もありません。またリンドが1873年(明治6)に内務省に報告した「日本治水考」や「利根川改修沿革考」にペトルメルクステトンとして記載されています。この標石は江戸川、利根川などの水位の基準点(Y.P=Yedogawa Peil)となっている堀江水位観測所の元祖になります。
2004年(平成16)9月に開かれた浦安市文化財審議会ではこの標石についてつぎのように扱っています。一たん文化財として指定されると権威があるものとして無批判で受け入れられることが多いので、このように慎重に調査、審議されることが望ましいと思われます。
問題は、この清瀧神社の石が本当にリンドの設置したものなのかどうか、というところである。リンドが堀江に水準標石をつくったという事実はハッキリしている。また、神社にそれらしき石がある、というのも事実。しかし、その二つが直接結びつくような史料がまだでてこないということである。この石が、本当に記録上言われているリンドの水準原標である、ということはまったくわからない。それを示すような資料がほしい。考えられるのは、リンドが当時学んだと思われる当時の測量技術についての書籍などを調べれば、図面などでこの石と同じような形のものがでてくれば、リンドのつくった石であることを裏付けることができると思われる。 [浦安市文化財審議会:平成16年度第3回浦安市文化財審議会議事要旨 2004]
このような審議とはべつに2007年(平成19)12月には浦安市観光協会の応募により土木学会によって「土木学会推奨土木遺産」に認定されました。
わが国の水準測量は明治初期にリンドなどがはじめたオランダ式の測量から几号水準点で代表されるイギリス式測量へ替わっていきました。しかし治水工事には御雇いオランダ人が明治後期まで活躍しています。リンドはファン・ドールンとともに1872年(明治5)に来日しましたが日本人のすることに批判的で1875(明治8)に帰国してしまいました。[上林好之:日本の川を甦らせた技師デ・レイケ 草思社 1999 p94]
清瀧神社は1196年に創建され大海津見神(おおわたづみのみこと)が祭神なのですが本殿の西隣には浅間神社という岩山(富士講か)があり、さらにその西隣が水神社になっています。神社のすぐ北には境川といわれる江戸川の支流があり東京湾に注いでいます。
福井県三国港測標
地図:三国
福井県の三国港(旧坂井港)突堤は九頭竜川の土砂が河口に堆積し北前船などの航行に支障をきたすため1878年(明治11)地元の要請と資金によって当時、内務省土木寮のお雇い外国人であったオランダ人のエッセル(G.A.Escher1843〜1939)が設計、デ・レイケ(Johannis de Rijke1842〜1913)の監督により着工され1880年(明治13)に一部を残し竣工しました。突堤はエッセル堤ともいわれていますが粗朶(そだ、伐りとった樹の枝)を組み岩石を載せ沈床する工法で築かれています。宮城県の野蒜港、熊本県の三角西港とともに明治三大築港の一つです。
511メートルある突堤は重要文化財で当時の測量標石は附(つけたり)指定になっており三国町緑ヶ丘の郷土博物館「みくに龍翔館」で保存されています。その素性はあまり調べられていません。かつて土中に埋没していたのを発掘し、えちぜん鉄道三国港のすぐ東にある民家(元喫茶店か)の屋外で保管されていたものを同博物館に移設したようです。展示解説では番戸哲司氏蔵になっています。博物館の学芸員のお話では発掘された位置は最初に設置された場所ではないようで当時の海岸線(水涯線)も埋め立てられ元位置は不明です。
標石は全長111.5センチメートル(この数値は博物館の台帳によるもので展示は上面から61センチメートル)、一辺13.6センチメートルの角柱で上面には十字が刻まれ正面は「H 測標 明治十一年起工」の刻字があります。他の面に刻字はありません。また上面から31センチメートルは平に磨かれていますが下部は刻字のある面以外の3面が荒削りです。また側面の角は上下方向に面取りがされています。岩質は展示説明によると笏谷(しゃくだに)石とあり、足羽(あすわ)山で採取された凝灰岩と思われます。
この標石は表示杭で本体は地中標になっているのでは思われ、たまたま地元測量会社のKさんが民家から移設時の写真をお持ちで見せていただきましたが、確認はできませんでした。文献、記録がなく、とくに刻字の「H」がなにを意味するのか問題です。上面の十字刻印は位置を表し、「H」は高さ8、横棒5センチメートルありますがHの横棒を基準として高さを表したとも考えられます。オランダ語で高さ、標高はHoogte、水平線はHorizon(Cassell's蘭英辞書)で、関係があるようですが、さらに調査の必要があります。なお標石の写真は博物館の許可を得て撮影しましたが転載などはご注意ください。
初代御料局測量課長神足勝記(こうたり・かつき1854〜1937)の伝記に三国港(坂井港)の経緯度標というのが載っています。1882年(明治15)の記事です。
福井県坂井港にある経緯度標の既定点から測量を起こすため、海路金石より坂井港(三国港)に赴く予定であった。 [上條武:孤高の道しるべ 銀河書房 1983 p466]
神足が御料局赴任以前の地質調査所時代の日記からの記述で1882年(明治15)、鑷力観測(地磁気観測のことか)のため三国港に寄ったようです。この経緯度標と「H 測標」とが同じものかどうかはわかりません。当時内務省地理局により全国各地の経緯度測量が行われましたが三国港に関しての記録は見つかっていません。
「みくに龍翔館」はエッセルが設計した龍翔小学校を1981年(昭和56)に再現したものです。標石については学芸員のTさんに懇切なご案内、説明をいただきました。同館には1878年(明治11)、当時の伊藤博文内務卿からエッセルに贈られた感謝状と江戸蒔絵の硯箱、文箱が展示されています。また同館にはエッセルの子息五男のM.C.エッセル(M.C.Escher1898〜、英語式にエッシャーと表記される)の紹介もありました。同氏は有名なトリックアートの画家で視覚の魔術師ともいわれています。わたしもかつて展覧会を見ましたが迷路のような水の流れを辿っていくと、いつの間にか元へ戻ってしまう不思議な絵がありました。
この標石とは関係ありませんが三国港突堤のなかほど、灯台のきわに国土地理院の現行、四等三角点「エッセル」5436−21−6001の金属標があります。わたしの探訪したときは日本海からの風波が強く波が堤防を越すほど危険な状態で見るのをあきらめ後日再訪しました。それにしても「エッセル」とはいい点名がつけられたものです。
福島県 安積疏水水量基点
(上戸)
地図:山潟
安積疏水(あさかそすい)は福島県の猪苗代湖から取水し郡山市と周辺地域の安積原野に農工業用水や飲用水を供給しており水力発電にも利用されています。1879年(明治12)国家事業としてオランダ人技師ヨハンネス・ファン・ドールンの指導により着工し1882年(明治15)には試験通水を行っています。翌年には疏水による灌漑を開始し荒涼とした原野を一大穀倉地帯に変えました。1899年(明治32)には疏水に水力発電所が設置され、その電力を利用した製糸業が起こり、また1908年(明治41)からは水道用水を郡山市に給水しています。
猪苗代湖の取水口は上戸浜(じょうこはま)にありますが開設当初は現在の取水口の東400メートルあたりで国道49号から県道9号が分岐する地点の湖岸になります。現在は埋め立てられていますがここから水路跡がJR上戸(じょうこ)に向かって残存しています。旧取水口から350メートル地点に「水量基点」と刻字のある標石が見られます。このあたりは桜の木など植えられ公園のようですが草むらで荒れています。国道49号がJR磐越西線を越える陸橋の南側歩道から下を眺めるとコンクリート柵で囲まれた標石がすぐに目につきます。
標石は一辺26.5センチメートルの角柱で頭部が丸みを帯び中央に一辺7センチメートル角の突起があります。地上高さは全高67センチメートルですが上面から30センチメートルまでの南面に「水量基点」の刻字があり、それより下部はすこし膨らみ基礎面で一辺34センチメートルになっています。南面下部の刻字は一部、基礎に埋まっていますが読める範囲ではつぎのとおりです。「安積疏水猪苗代湖水量○ 是ヨリ百二十四度ニ当リ二十一間○ 分ノ掘割南側ニシテ本標頭ヨリ○ ┐四尺三寸二分ヲ以テ三尺八寸ノ○ 水位トス○ 此基点ハ農商務省建○ ノ水量ノ変動スルヲ恐レ○ ヲ建者也 明治二十七年十一○」と刻字があります。○は行の終りで基礎に埋もれて読めない字もあります。この「水量基点」から猪苗代湖の水位の測定位置と水位基準を定めたもので1894年(明治27)に設置されたことがわかります。この標石自体は元位置から移動された可能性もあります。
福島県 安積疏水水量基点
(十六橋)
地図:猪苗代
安積疏水に関連ある標石は猪苗代湖畔の十六橋(じゅうろっきょう)にも見られます。十六橋は福島県耶麻郡猪苗代町と会津若松市の間にある橋で猪苗代湖に流れ込む日橋川にかかっています。1880年(明治13)安積疏水の水量調整のためファン・ドールンの指導により建設されましたが現在のものは1914年(大正3)に再建されています。
この十六橋西端の広場にある高さ約10メートルの「長工師ファンドールン君」像から東に15メートル、「有栖川熾仁親王殿下親植松」碑の裏に標石が見られます。
標石はほとんど地中に埋もれており一辺27、地上高さ5センチメートル、上面中央の円い突起は直径7センチメートルあります。上戸にある水量基点標石
と似ていますが中央の突起は四角でなく円形になっています。少し地面を掘ってみると東面に「水量基点」の刻字が見られました。他の面は識別不能で、なにも彫られてないかもしれません。
大阪 淀川毛馬基標
地図:大阪東北部
大阪市北区長柄の毛馬橋の北にありますが淀川とその水を大阪市街にとりいれている大川の分岐点にあたります。淀川工事事務所毛馬出張所の北に旧毛馬閘門などがみられる公園があり背の高い淀川改修紀功碑の前に囲いがされており旧毛馬基標の表示と説明板があります。毛馬基標には写真のようにBMOP.15.50、4.697Mと刻字されていますがBM(ベンチマーク)15.5尺、4.697メートルを表しています。標高の変動や毛馬閘門の改築工事のため基標としての役割がおわり1960年代から現位置で記念として保存されています。またこの位置は国土地理院の基準水準点111号ともされていましたが現在は地図にも掲載されていなく成果使用不可となっています。
東京湾の平均海面はT.P(Tokyo Peil)といい現在のわが国の標高基準になっていますが大阪湾の場合はこれに対しO.P(Osaka Peil)といいます。東京と異なり平均海面ではなく最低潮面ということになっているそうです。O.Pの由来は明治初期の大阪港の建設に際して旧砲台内灯台下船溜所に量水標を設けてオランダ人ヨハネス・デレーケが潮位の観測をしました。そのとき1874年(明治7)中の最低潮位が同量水標で9寸6分であったのでこの点をO.P零と定義し水準測量の基準面としました。その後いくつかの基準標が各地につくられたようですが毛馬基標は淀川毛馬閘門が完成した1907年(明治40)に現位置から東北東20メートルの地点に設置されました。
1935年には毛馬洗堰下流右岸岸壁の最下端の隅笠石にある釘打の頂点としO.P+4.697メートル(15.5尺)と定義されました。O.PとT.Pの関係も何度か変わりましたが1956年から近畿地方建設局内では1.20メートルの換算値を採用していました。1966年にはO.P基準標を茨木市大字福井にある国土地理院の基準水準点「基21」に移しその標石下65.4235メートルをO.Pと定めることになりました。T.Pを基準とした高さをO.Pを基準とする高さに換算するときはT.Pに1.30メートルを加えます。(O.P海面はT.P海面よりも1.30メートル低くなっています)[建設省近畿地方建設局:淀川百年史 1974 p1724−1725]
新津市満願寺の内務省標石
地図:新津
新津市の東に流れる阿賀野川にそって満願寺の集落があり、その北に国土交通省阿賀野川工事事務所満願寺出張所があります。阿賀野川と能代川(のうだいがわ)を結ぶ小阿賀野川の取入口にあたります。事務所の入口の門柱の左(西)から庭園の沿い七日町の集落に向かう道路に面して内務省の標石があります。背丈ほどの草が生えており見つけるのに手間取りました。
上辺24.5、下辺32センチメートル、地上高さ44センチメートルの角錐柱で上面には東西、南北に 対角線が刻まれており端には「北」「東」「南」「西」の刻字があり、南西面には横書きで「11M723」、縦書き2列で「陸地測量部 水準基面上」、北東面には「内務省」と刻字があります。
いつごろ何の目的で設置されたものかわかりません。戦前、内務省は土木局があり土木行政も行っていたこと、また阿賀野川のすぐ近傍に設置されていることから河川管理のための水準点と思われます。
松戸市上矢切基標
地図:松戸
JR常磐線松戸から江戸川左岸沿いのバス道路が小山高架橋をくぐり100メートル程度で京成バス上三公民館前停留所があります。さらに南へ50メートル「アトラス松戸マンション」の向かい路地の西南角にあります。
一辺15、地上高さ27センチメートルの角柱で上面には直径5センチメートルの突起があります。北面は「○矢切基標」(○は「上」とも読める)の刻字があり西面にも刻字があるようですが民家のフェンスがあり読めません。この位置から江戸川の堤防が間近に見えることから河川標識と思われます。
長野県飯島町本郷の内務省三角点
地図:伊那大島
JR伊那本郷の南東1.5キロメートルの天竜川右岸近くにあります。本郷第三集落の南を流れる川が天竜川に注ぐ100メートル手前になります。土地所有者のSさんに案内していただきました。
標石は一辺12、地上高さ38センチメートルで上面は+刻印と各辺に隅切があります。刻字は北面に「内務省」、東面に「NO 10」、南面に「三角点」とあります。
天竜川の河岸近くにあること、戦前は内務省が河川管理をしていたことを考えあわせると天竜川の維持管理のための位置の基準点にしたと考えられます。
福井県小浜城址の内務省標石
地図:鋸崎
小浜市城内一丁目の小浜城址の南西端にあります。本丸跡の石垣絶壁に接しています。標石は一辺15センチメートル角、整形部の高さ30センチメートル、全地上高さ47センチメートルの花崗岩で上面には一画6センチメートルの+刻印があります。刻字は東面に「26」、西面に「内務省」(縦書き)となっています。
この標石は内務省が河川管理のため設置した距離標(丁杭)と思われます。本丸跡の高台にあり近傍河川の堤防より高くなっていることと標石上面に突起がなく、やや丸みを帯びていること、+刻印があることから水準点と三角点を併用された可能性も考えられます。念のため福井河川国道事務所に尋ねましたが同所の管理しているものではなく不明とのことでした。
小浜城は1601年(慶長6)関ヶ原の戦で功績のあった京極高次により築城に着手されました。すぐ近くの小浜湾に流れ込む一級河川「北川」、二級河川「多田川」が東に、二級河川「南川」が西にあり、これらの河川と海に囲まれた強固な水城となっています。
大阪阿麻美許曽神社の内務省水準点
地図:大阪東南部
大阪市の南に大和川という大きい川が奈良県の方から流れてきています。下高野橋すぐ南の東住吉区矢田七丁目に阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)があります。この神社の東門の入口北に内務省の標石があります。
標石の東面は内務省、西面はB.MとNo4が上下に刻字されています。角柱で15センチメートル角、地上高25センチメートルの花崗岩です。B.MがBench Markで水準点を意味し標石上面に現行の水準点と同様の球分体があることから内務省の設置した水準点に間違いないと思われます。
ただ、いつごろ何の目的で設置されたのかはわかりませんが、わたしの見た限りでは標石の磨耗、損傷が少ないこと、字体が楷書で新しいこと上面に球分体があることから明治初期に内務省が設置した几号水準点よりも、もっと新しいもので大和川にかかる下高野橋のすぐ南に位置しているので河川の管理につかったとおもわれます。戦前の内務省は土木、都市計画、地理に関する事務も所管しておりました。この標石は2002年(平成14)春に隣接する建物工事のため撤去されました。
阿麻美許曽神社の境内には行基菩薩安住之地という碑があります。内務省の標石とは関係ありませんが、なにか地図測量と因縁がある神社です。大和川にかかる近くの橋にも行基橋と名前がついています。伝説ですが奈良時代、740年(天平12)頃、行基菩薩は740年ころ「行基図」といわれる街道図を作成しました。かつて行基の奏上がきっかっけで大晦日に行われた朝廷の行事、追儺(ついな)の儀式で疫鬼(えきき)を追い出す国土の限界を絵図であらわしたものとの説があります。[海野一隆:地図に見る日本 大修館 1999 p103]
行基図は残存するの全国的な最古の地図といわれ記載内容を改訂、変更しながら江戸時代初期まで使われていました。
加古川の内務省標石
地図:加古川
山陽電鉄曽根の北東200メートル、高砂市教育委員会文化財整理室や高齢者大学の建屋があり前庭の古い石碑のなかに内務省標石があります。一辺15センチメートル、地上高さ32センチメートルの花崗岩で頭部は丸みを帯びています。西面に「内務省」と縦書き、南面に「0−24」と3段に刻字があり加古川河口から0里24町を表している距離標(丁杭)と思われます。説明板と教育委員会係員によると元位置は高砂市荒井町一丁目の加古川西岸土堤近傍にあり2006年(平成18)に土地の売却により当地に移転されました。
パナマ運河の測量に従事した青山 士
(あおやま・あきら)
青山士(あおやま・あきら 1878〜1963)は静岡県磐田市出身で1903年(明治36)東京帝国大学土木工学科を卒業、当時主任教授であった広井勇(ひろい・いさみ1862〜1928)の紹介で渡米、1904年(明治37)から米国が再開したパナマ運河工事に日本人としてただひとり参加しました。はじめは末端の測量員として採用されましたが、のちクリストバル工区(大西洋側の港湾建設現場)で測量技師に昇進、1906年(明治39)にはガトゥン・ダムの設計技師になりましたが1911年(明治44)同工事のほぼ完成の段階で帰国しました。
帰国後、内務省に奉職し荒川放水路工事を、また新潟土木出張所長として信濃川大河津分水工事を完成させ1936年(昭和11)内務技監として退官しました。大河津分水路の大堰のそばにある竣工記念碑には「萬象二天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」「人類ノ爲メ、國ノ爲メ」という青山の名文が刻まれています。
青山は第一高等学校在学時に内村鑑三(うちむら・かんぞう 1861〜1930)の講演を聞き感激して内村門下の無教会主義クリスチャンとなります。大学の恩師、広井勇も内村と札幌農学校と同期でクリスチャンでした。青山は清廉で自己に厳しい土木技術者として生涯をまっとうしました。[高橋哲郎:山河の変奏曲 内務技師 青山士 鬼怒川の流れに挑む 山海堂 2001 p167][高橋哲郎:評伝 技師・青山士の生涯 講談社 1994 p101]
青山のパナマ時代の写真は土木学会の許可を得て青山士写真集パナマ編から転載(部分拡大)しました。