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海洋測量

海洋測量は船舶航路に関する測量で海図の作成を目的にしています。経緯度や水準の基準点、航海用目標の位置決定、水深、海底地質、地形、地磁気、重力、海流、潮流、潮汐(ちょうせき)の測量です。海洋測量は水路測量(Hydrography)とも呼ばれますが広義の水路測量には海洋測量のほかに河川測量が含まれます。旧(海軍)水路部や後継の海上保安庁水路部、同海洋情報部では「海洋測量」ではなく「水路測量」の用語がつかわれています。 


海軍水路部の測量

日本の本格的な沿岸測量は1861年(文久1)に幕府が英艦隊に許可したことに始まります。1868年(明治1)から13年間にわたり英国測量艦シルビア号が測量を行っていますが1870年(明治3)の瀬戸内海塩飽諸島海域測量には日本人も参加しています。英艦「シルビア」以外にも後年、英艦「フライング・フィッシュ」、米艦「トスカロラ」、伊艦「ベトルビザーニー」、仏艦「シュープリース」、独艦「エリザベット」、「ライプチッヒ」などが日本沿岸を測量し日本政府にも報告されています。[海軍省:海軍制度沿革 巻十五 昭和十七年 (復刻版 原書房 1972 p346)]

1869年(明治2)に兵部省が設置され翌年その下に海軍掛と陸軍掛に分課されたのですが1871年(明治4)に兵部省が海軍部と陸軍部に分けられ海軍部には秘史局、軍務局、造船局、水路局、会計局の5局が置かれ水路局は海軍兵学寮の一室で水路測量を主とした業務を開始することになりました。翌1872年(明治5)には兵部省が廃され陸海軍2省となり海軍省には水路寮が設置されました。1886年(明治19)には海軍水路部となり、かつて軍艦操練所の伝習生であった柳楢悦(やなぎ・ならよし 1832〜1891)が初代海軍水路部長に就任しています。初期の業績はつぎのとおりです。

   1872年(明治5) 品川における験潮の開始
              築地(旗山)で経緯度の測定
              磁針偏差測定
              海里法の制定
              東京湾測量開始
              海図第一号「陸中國釜石港之圖」発行
   1874年(明治7) 麻布飯倉に海軍観象台完成
              金星太陽面通過観測に参加、東京・横浜・神戸・長崎
              長崎・東京間の経度差測定
   1880年(明治13)観象台にドイツ・レプソルド社製の大子午儀など据付 
   1882年(明治15)本格的な全国沿岸測量の開始
              万国磁気委員会の提案により地磁気測量(1ヶ年)
   1915年(大正4) この年と翌々1917年(大正6)天測室の経度精測

1888年(明治21)には海軍の冠称をとり単に水路部と称しました。軍用のみならず一般船舶にたいしても情報を提供したことによります。当時の水路部長は肝付兼行(きもつき・かねゆき 1853〜1922)です。水路部は第二次大戦終了までつづき戦後は海上保安庁へ引き継がれました。

初期の水路測量についての文献は少なく英国艦シルビア号の艦長ウァルトン海軍少将(William James Lloyed Wharton)が1882年(明治15)に刊行した"Hydrographical Surveying"を水路部が翻訳加筆した「水路測量書」が当時唯一の技術解説書でした。[水路部:水路測量書 水路部 1910 同志社大学蔵]

海図第一号記念碑

地図:釜石

維新後、本格的な海図は英国測量艦シルビア号の測量にもとづき日本人が参加して1870年(明治3)に作成された瀬戸内海の「塩飽(しわく)諸島実測圖」といわれていますが日本独自では測量艦「春日」により北海道と釜石港が測量され1872年(明治5)に海図第一号として「陸中國釜石港之圖」が発行されました。海図の縮尺は約三万六千分の一で水深の単位は「尋」(ひろ、1.8メートル)になっています。

釜石港が海図第一号に選ばれたのは同港が東京・函館間の中間補給地点として重要であったことと当時、官営製鉄所が建設される直前の時期で入港する船舶の安全と利便をはかるためであったと説明板に記載されていました。

この記念碑がJR釜石の南東3キロメートルの釜石大観音像、正面直下の展望台にあります。1994年(平成6)に海上保安庁と日本水路協会により設置されたものです。一たん観音の境内にはいらなければ到達できません。

海軍水路局経緯度測定の地

地図:東京南部

1872年(明治5)に海軍本省が旧尾張藩邸に置かれると賜山(たまものやま)という築山の上に「海軍卿旗」が掲揚されました。現在の築地五丁目附近にある中央卸売市場でかつて松平定信の下屋敷「浴恩園」のあったところです。この旗を見て人々はこの山を旗山と呼びましたが水路局の柳楢悦中佐(初代水路部長)はその旗竿の経緯度を測定しています。それまでは横浜の英海軍病院の測点によっていました。旗山を記念して石碑が設置されたのですが、この場所は1923年(大正12)の関東大震災の復興工事により築地市場の入り口の交差点となり交通の障害になつたので築地市場内の水神社(元波除神社)に移転されました。「旗山」と刻まれた石碑(高さ約1.7メートル)が水神社の向かって左側にあります。また1883年(明治16)地理局測量課から東京府土木課への文書によれば当時の京橋区築地の海軍省練兵場には大三角点があり旗山の旗竿は「廿九號補助點」として使われていたことが記録されています。[東京都:東京市史稿 市街編 第67 1975][海上保安庁水路部:日本水路史 日本水路協会 1971 p28]

1872年(明治5)に海軍省の旗竿を北緯35度40分、東経139度45分25秒05と定め「東京原標」として太政官から示達されましたが1882年(明治15)には飯倉観象台を原標(北緯35度39分17秒5、東経139度44分57秒、海面上70尺)とすることに改められました。[海軍省:海軍制度沿革 巻十五 昭和十七年 (復刻版 原書房 1972 p347)]

水路部経緯度基点標

地図:東京南部

明治末期に水路部に設置された天測室は東京天文台との関係位置測定に端を発し1915年(大正4)と1917年(大正6)に経度精測をおこない、わが国の基準経度の確定に重要な役割を果たしました。当時の天測室の位置は1923年(大正12)の関東大震災のあと東京市の復興計画による区画整理により現在の築地市場正門前付近になりました。水路部はこの記念すべき地点の永久保存をはかり1933年(昭和8)東京市の同意を得て旧天測室子午儀台の位置の路面に+印のある石柱、「経緯度基点標」を設置して近くの水路部構内東端の囲壁外側にその由来を刻字した説明板(鉄製か)を設置しました。現在はこの説明板だけが旧位置近くの海上保安庁海洋情報資料館に残っています。築地にある朝日新聞社の隣、国立がんセンターの向かいになります。

水路部経緯度標

水路測量で使用される測量標は「水路測量標條例」(法律第三十八號 明治二十三年)で定められています。また測量標のうち重要なものは「基點標」とされ永久に保存されました。測量後撤去するものは「測標」とよばれていました。それらの形状、大きさは海軍省告示(海軍省告示第十六號 明治二十三年)で定められています。一辺15〜18センチメートルの石材角柱で地上高さは45センチメートル、表面には「經度或ハ緯度測量點裏面ニハ水路部横面ニハ年月日ヲ刻ス」となっています。測標は紅白の標旗のほか、簡易な櫓(やぐら)まで多種あります。経緯度測量点は全国の沿岸で本土だけでも約40ヶ所設置され、この地点で天測が行われています。2点の経緯度から距離を算出し基線として三角測量が行われました。この基線を天測基線といいます。残存が確認されている経緯度測量点は小樽、秋田、出雲崎、壱岐島、馬渡島(まだらしま)の5ヶ所です。浜田の測候所にもありましたが近年、撤去されました。

小樽 水路部経度標

地図:小樽東部

小樽市相生町にある水天宮本殿の内陣(屋外)にあります。標石の東面には「水路部」、西面には「明治二六年一〇月」の刻字がまた上部には+の刻印があります。へいの格子から覗けますが触れることはできません。15センチメートル角、50センチメートル高さと推定されます。すぐそばには旧樺太(サハリン)国境中間標石があります。当時の水路部が神威岬から石狩川にいたる間をのべ158日、7名により測量を実施し石狩至古平、古平至神威岬、小樽港の図を成果としたときの基準標と推定されます。[太田:よもうみ話(7)季刊「水路」第81号 日本水路協会 1992]

海軍の「基點標」については1890年(明治23)の海軍省告示第十六號で定められており表面には「經度或ハ緯度測量點裏面ニハ水路部横面ニハ年月日ヲ刻ス」となっていますが、この小樽の標石には經度(または緯度)測量點の刻字が見えませんが「經度測定標」になっているようです。

なお境内には四等三角点「水天宮」6441−60−2001があることになっていますがアスファルト舗装の駐車場などでき発見できませんでした。この三角点の位置は北緯43度11分24.383秒、経度141度00分28.928秒(日本測地系)、標高56.00メートルになっていますが経度標(小樽市当局の説明板には経度測定標と記載がありました)は141度のきりのよいところを選んで設置されたのかもしれません。水天宮には水波能女神(みづはのめのかみ)はじめ四神が祀られていますが水の神さま、海軍と縁がありそうです。

秋田 水路部経緯度測量点

地図:秋田西部

秋田市千秋(せんしゅう)北の丸にあり久保田城跡から北へ明徳小学校の東をすすんだ丘陵でJR秋田から徒歩20分程度で到達できます。現地は水道貯水池跡の秋田和洋女子高校グランドで西から弓道場、テニスコート2面、汎用コートですがテニスコートの西端にそって北へすすみ貯水池跡の外側の階段を降ります。20メートル先のフェンス手前に標石があります。ご近所の人に案内いただきましたが笹とイタドリに覆われ、蚊やブトの来襲に閉口しました。

標石の寸法は東西18、南北17、地上高さ45センチメートルで、上面の全面に+が刻印されています。刻字は東面「水路部」、南面(テニスコート側)「經緯度測量點」、北面は刻字なし、西面「大正七年五月」とそれぞれ縦書きです。この標石の北1メートルにはフェンスが張られ外側は急峻な崖です。フェンスとこの標石の中間に10.5センチメートル角、地上高さ41センチメートルの無刻字のコンクリート標柱がありますが水路部の標石とは関係なさそうです。

水路部では陸地測量部がおこなう測地測量がほぼ完了したことにより1922年(大正11)から日本本土周辺の海図を天文経緯度から測地経緯度に改正しています。この標石は1918年(大正7)に設置されましたから水路部としては後期の天測点になると思われます。同年舞鶴、秋田の経緯度測量が行なわれています。[作花一志、福江純:歴史を揺るがした星々 恒星社 2006 p136][海上保安庁水路部:日本水路史 日本水路協会 1971 p168]

1918年(大正7)の水路部年報に「舞鶴及秋田經緯度測」として記録があります。

四月十六日ヨリ五月一日ニ至ル期間及五月十三日ヨリ六月二十六日ニ至ル期間ニ於テ舞鶴東京間秋田東京間經度電測竝ニ「タルコット」法ニヨル緯度觀測ヲ施行ス其成果左ノ如シ
基本經度トシテ水路部測量科子午儀臺の中心經度九時十九分四秒三三四ヲ使用ス
舞鶴天測點
(中略)
秋田天測點
經度(角)一四〇度六分五十九秒四九       (±)〇秒二四〇
緯度   三十九度四十三分三十三秒四百七十一(±)〇秒〇三四
六寸經五尺ノ杉丸太四本ヲ垂直ニ推置ス 

[水路部:水路部年報 大正七年 水路部 1919 p21]

出雲崎 水路部経緯度測定標

地図:出雲崎

新潟県出雲崎町の妙福寺にあります。出雲崎はお寺がたくさんあり、わかり難い場所です。バス停「稲荷町」から旧街道を北へ、出雲崎交番を過ぎ「のんき」床屋の北20メートルのところを山手へ入ります。石段を登りきったところが妙福寺で本堂に向かって右の寺務所前の大きなケヤキの木の下に標石があります。すぐ前が草つきの断崖になっていて正面にまわることはできません。

一辺22センチメートル、地上高さ48センチメートルの角柱で上面は東西南北に十字が全面に彫られており中央に浅い穴が開いています。北面は「水路部」、西面(海側)は「經緯度測定標」、南面は「明治廿一年八月」と縦書きの刻字があります。東面はなにも彫られていません。この標石は水路部が1888年(明治21)に出雲崎付近の海図を作成するための経緯度の基準とした天測点で経度は東京麻布の海軍観象台を基準に両地の時刻を電信で比較して測定されました。[作花一志、福江純:歴史を揺るがした星々 恒星社 2006 p160][海上保安庁水路部:日本水路史 日本水路協会 1971 p50]

この標石はかつて現在地から1メートル程度はなれた位置に横倒しで置かれていたようです。[武石信之、佐藤利男:出雲崎妙福寺境内の経緯度天測標について「天界」862号 1997.3 p63]

この標石の2メートル北よりに一辺10センチメートルの粗雑なコンクリート角柱があり上面に+が刻印された丸い金属指標が打ち込まれています。戦後、設置されたものと思われ経緯度測定標とは関係ないでしょう。

妙福寺には「俳諧伝灯塚」といい松尾芭蕉の名句「荒波や佐渡によこたふ天河」などが彫られている石碑があります。この位置から正面に佐渡島を望むことができます。石段下から100メートル北の旧街道沿いに「芭蕉園」があり「北国街道人物往来史年表」の説明板には1802年(享和2)「伊能忠敬、海岸を測量に来る」とありました。出雲崎は良寛の生地「良寛の里」としても知られています。

壱岐島 水路部緯度測定標

地図:郷ノ浦

長崎県壱岐島にあります。唐津から船で1時間45分で印通寺(いんどうじ)港に着き、西へ4キロメートルの岳ノ辻に見られます。国道382号に沿う郷ノ浦町志原西触(しわらにしふれ)から南へ1キロメートルのところで通信アンテナが林立し展望台もある広場です。駐車場手前、見上神社のコンクリート参道を上り本殿前を右に登ると芝生の広場と展望所があります。ちょうど神社の裏あたりに一等三角点「嶽ノ峯」(だけのつじ)5029−45−8701とこの水路部標石が見られます。

標石は直径90、地上高25センチメートルの岩石で囲まれた円形マウンド上にあり標石は一辺24センチメートル、マウンド面からの高さ52センチメートルの角柱で上面は東西南北に十字が全面に彫られています。南面は「緯度測定標」、西面は「水路部」、東面は「明治廿二年五月」と刻字が見られます。陸地測量部の一等三角点は1891年(明治24)に埋標、翌年に観測されています。

馬渡島 (まだらじま) 水路部緯度測定標

地図:波戸岬(はどのみさき)

佐賀県馬渡島(まだらじま)の番所ノ辻にあります。呼子から船で50分で宮の本の港に着き、そこからは直線距離で1.5キロメートルですが曲がりくねった舗装林道を徒歩で70分要します。山頂近くの駐車場から、さらに狭くなった舗装道が山頂展望台まであります。展望台のすぐ北に隣接して水路部標石がありますが、その西15メートルほどのところに一等三角点「馬渡島」(まわたりじま)5029−26−8001が見られます。

標石は一辺24センチメートル、地上高さ43センチメートルの角柱で上面は東西南北に十字が全面に彫られています。南面は「緯度測定標」、西面は「水路部」、東面は「明治廿二年六月」と刻字が見られます。壱岐の岳ノ辻にある水路部標石との間を基線にして三角測量を行ったようです。陸地測量部の一等三角点は1891年(明治24)に埋標、翌々年に観測されています。

基本水準標

水深などの測量の基準となる水準点は地上に設置され測量成果は海図の水深に反映されます。大正から昭和にかけて設置された標石は現在も使用されているものがあります。

蒲郡竹島

地図:蒲郡

JR蒲郡の南1キロメートル、長い竹島橋を渡り神社鳥居から西側周遊歩道を南の龍神岬方向に進むと、ほどなく西に標石の載った高さ2メートル程度の岩礁が見えます。大潮干潮時には徒歩で岩礁まで楽に辿りつけます。

標石は一辺11センチメートル、地上高さ20センチメートルの花崗岩の角柱です。刻字は南面「水路△」、西面「+」、北面「△△」、東面「昭和十△」(△は判読不明)です。長年、風波に曝されかなり風化が進んでいます。また標石は岩礁に埋め込まれ周囲がコンクリートで固められているので下部の文字も読めません。

この標石は「平均水面、最高水面及び最低水面一覧表」の最新版(HP)にないので現在は使用されていないようです。 標石側面の+印、横棒が基準になります。

幡豆町洲崎

地図:蒲郡

名鉄蒲郡線こどもの国から駅前の道を港へ進み小高い丘を西に回り込み海岸に降りると二つの堤体付け根に「綿帽子岩」という大きい岩がありその上に標石が見られます。駅から徒歩20分を要します。

標石は一辺11センチメートル、地上高さ27センチメートルの花崗岩の角柱です。刻字は西面「水路部」、北面「+」、東面「海△△△」、南面「昭和十六年」(△は判読不明)です。長年、風波に曝されかなり風化が進んでいます。

この標石は「平均水面、最高水面及び最低水面一覧表」の最新版(HP)にあり現在も使用されています。 標石側面の+印、横棒が基準になり「最低水面は基本水準標下4.10メートル」のように表します。

四日市旧港

地図:四日市東部

JR四日市から800メートル、四日市市高砂町8にあり、本町通を西へ相生橋を渡り道路の終点、稲葉翁記念公園の西端、1903年(明治36)に建てられた「稲葉三右衛門君彰功碑」奥のベンチ裏にあります。北は民家に隣接しています。

標石は一辺20センチメートル、地上高さ26センチメートルの花崗岩の角柱です。刻字は東面「水路部」、南面「+」、西面「海軍水準」、北面「昭和十二年」です。標石上面には薄く黄色のペイントで「BM」と書かれた痕跡がありました。

この標石は「平均水面、最高水面及び最低水面一覧表」の最新版(HP)にあり現行の基本水準標(HBM)として使用されているようです。 標石側面の+印、横棒が基準になります。横棒は上面から7.5センチメートルの位置です。「最低水面は基本水準標下4.77メートル」のように表します。

このあたりは四日市旧港で港湾施設は1996年(平成8)に国の重要文化財に指定されています。四日市港は江戸時代から伊勢湾の代表的な港として栄えましたが次第に土砂に埋まり港としての機能が低下しましたが四日市の廻船問屋、稲葉三右衛門が私財を投じ1873(明治6)年から11年間で埠頭を持つ港湾を完成しました。公園の南西角には「波止改築紀念碑」もあります。

宇治山田港

地図:明野

JR伊勢市から北へ5キロメートル、伊勢市大湊町937にあり三重交通バス終点「大湊」から真東に徒歩5分で防潮堤に突き当たり、これを右に30メートルのところです。旧宇治山田港、五十鈴川の河口にあたり近くには南平(なんぺい)造船所、東町ポンプ場があります。

標石は一辺20センチメートル、基台上の高さ36センチメートルの花崗岩の角柱です。基台は幅75、奥行き56、厚さ10センチメートル程度で防潮堤に密着しています。刻字は西面「水路部」、北面「+」、東面「海軍水準」、南面「昭和十二年」ですが東面は防潮堤との間隔が少なく写真撮影はかなり困難です。

この標石は「平均水面、最高水面及び最低水面一覧表」の最新版(HP)にあり現行の基本水準標(HBM)として使用されているようです。標石側面の+印、横棒が基準になり「最低水面は基本水準標下5.61メートル」のように表します。

標石に隣接して記念碑がありました。一辺16、地上高さ130センチメートルの花崗岩で西面には「農林省告示第一三五号」「保護水面基点甲」と2行書き、南面には「旧海軍水路部標柱跡」と刻字がありました。保護水面とは水産動物保護のため指定された区域の水面で水産資源保護法(昭和二十六年法律第三百十三号)で定まっています。旧海軍の水準標とは直接関係がなさそうです。

また近くに1999年(平成11)「大湊波除堤」碑と1846年(弘化3)に建設されたという古い灯明台跡の説明板がありました。灯明台基礎の石垣の一部は、いまも路上に露出しています。標石の裏にあたる防潮堤の外側は現在、土砂の埋立地になっています。


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