水沢観測所木村記念館
地図:水沢
木村榮(きむら・ひさし 1870〜1943)は42年間にわたって地球回転運動の乱れのひとつである極運動の研究を行い学術的な基礎を築きました。z項の発見は日本人による天文学への初めての画期的な貢献として世界の注目を浴びました。奥州市水沢にある国立天文台水沢観測所には1899年(明治32)に臨時緯度観測所の庁舎として建築された建物が初代緯度観測所長の木村の業績を記念して「木村記念館」として木村の遺品とともに観測機器などが展示されています。当時の所長室には木村の書で「戒模擬勗創造 千山」(模擬を戒め創造につとむ)とありました。千山は木村の号です。
z項の説明です。地球は自転していますが太陽や月の引力を受けるためコマのように首振り運動をしています。地球と太陽、月の位置関係によって大きな首振り運動(これを才差といいます)に小刻みな運動(これを章動といいます)が加わり複雑な運動になりますが天文学の計算で表すことができます。位置が正確にわかっている星が子午線を通過するときその高度角を測定するとその地点の緯度がわかりますが計算値とは僅かにずれています。最大0.3秒で14キロメートル先の1円玉を見る角度と同じ程度です。これを緯度変化といいますが地球の自転軸に対して地球自身がふらつくからです。地球上から見ると天の北極点が円に近い極運動と呼ばれる反時計回りの運動をしています。
この極運動を国際的に観測するため1899年(明治32)に北緯39度8分線上で水沢を含む世界の6ヶ所の観測所が選ばれました。観測された緯度変化の値と計算値の差が水沢の場合極めて大きく観測ミスではないかと指摘され木村は窮地に立ちましたがが緯度変化と極運動の関係式には正体不明のなにかがはいっているとしてz項を入れた関係式を提唱しこれが認められることになりました。z項の正体が判明したのは1970年(昭和45)になってからです。地球の深部にある固体と流体がわずかに異なった動きをする現象がその正体でした。
金沢市 木村栄像
地図:金沢
木村榮は石川県泉野村(現金沢市)で誕生しました。石川県庁のすぐ南、金沢市立ふるさと偉人館の表庭には胸像があり、内部には水沢の緯度観測所で使用したアスカニア製天頂儀の複製などの展示があります。この写真は同事務所の許可を得て撮影したものです。遺品など個々の展示物の撮影はできません。
緯度観測所と木村栄の切手
1949年(昭和24)に緯度観測所創立五十年記念として記念切手が、また1952年(昭和27)には木村栄の肖像が文化人切手として発行されました。
震災予防調査会の発足
わが国の地磁気観測は1880年(明治13)内務省地質調査所のお雇い外国人シュット(Otto Schutt)により行われ、つづいて同所の関野修蔵(1852〜1929)と神足勝記(1854〜1937)が全国で186ヶ所の測定を行っています。1891年(明治24)年の濃尾地震は死者7千人以上の大きな被害をもたらしましたが、これを契機に地震と震災防止の研究を協力して進めるべきであるという意見が出され翌年、文部省に「震災予防調査会」が設立されました。初代会長は菊池大麓(きくち・だいろく 1855〜1917)です。田中館愛橘(たなかだて・あいきつ 1856〜1952)らの提唱により地震予知には地磁気の測量が必要不可欠ということになり震災予防調査会では地磁気の研究も積極的に進めることになりました。同調査会の事業では重力や緯度、水準の観測などとともに、全国に地磁気観測所を設け磁力とその変遷を観測することになっています。[震災豫防調査會:震災豫防調査會報告 第壹號 1893 p10]
1893(明治26)から4年間にわたり全国の地磁気測量が行われましたが最初の年は本州中部で火山と地磁気異常をともなう断層地域の測量をすることになり富士山、浅間山の近傍とフォッサマグナに沿った地域での地磁気観測が行われました。引きつづいて北海道、本州北部、1896年(明治29)には西日本、四国、九州で観測されました。
宮津市立宮津小学校の地磁気観測点
地図:宮津
この標石は京都府北部の北近畿タンゴ鉄道宮津から南西400メートルに位置する宮津小学校の運動場入口近く「天橋義塾の碑」の東隣に保存されています。標石の大きさは一辺42センチメートルの立方体で整形部の高さ12センチメートル、基礎上面から標石上面までの高さは33センチメートルの花崗岩で基礎は一辺89、地上高さ15.5センチメートルのコンクリートです。上面の刻字は北を上に右から「明治二十九年七月十一日」「磁力實測点」「震災豫防調査会」と縦書きになっています。この標石は1988年(昭和63)夏、同校の運動場が国体軟式野球会場になるため整備中、地下60センチメートルに埋まっているのが発見されました。当時の報道によれば震災予防調査会の委託により東京大学が地磁気観測をした全国327ヶ所のうちの一ヶ所で設置時の校名は与謝郡第一高等小学校だったそうです。[京都新聞 90余年前の磁気測量調査 1988年9月30日]
標石のコンクリート基礎が比較的新しいことから新聞報道のように標石が移設されたことは明らかです。また刻字に日付があることから観測台として使用後に刻字がされたものと思われます。標石の見学は同小学校へ事前の連絡が必要です。[上西勝也:測地観測遺跡の残存状況「測地学会誌」55巻1号 2009年 日本測地学会 p96]
広島市中区加古町の地磁気測量点
地図:広島
広島市の中心を流れる太田川(本川)の左岸、新住吉橋と中島神崎橋の中間で広島市立中島小学校の北西端の堤防上にあります。このあたり旧広島県庁の跡地で「広島県職員原爆犠牲者慰霊碑」という高さ3メートル程度の碑があり標石はその裏になります。
標石は一辺18、地上高さ53センチメートルで上部が角錐になっています。西面には「地磁氣測量點」、北面には「明治二十年七月實○ 廣島測候○」(○は地中で文字不明)の刻字があります。
この刻字から察すると1887年(明治20)に広島測候所で地磁気観測を行ったことになります。震災予防調査会は1892年(明治25)に発足したので、それより前の内務省の主導による事績と思われます。当時,測候所は県の所管でした。
京都大学に残る地磁気測定装置
地図:京都東北部
写真上段の伏角計(Dip Needle)は旧第三高等学校でつかわれたと思われる理科実験用のものです。磁力を直接利用した計器といえます。磁針を水平にすれば方位角も測定できます。また下段は京都大学理学部の展示コーナーにある地磁気変化計で1957年(昭和32)と翌年の国際地球観測年に参加するため京都大学で開発されたものです。細い燐青銅線に吊り下げた小さな磁石の微小な動きを光学的に拡大して印画紙上に記録することにより地球磁場の変動を精密に測定することができます。銅線のねじれの力を利用して磁石を吊り下げる向きを変えることにより東西、南北、上下3方向の磁場変動が測定できます。
測地学委員会の発足
1889年(明治22)、日本は万国測地学協会に加盟しました。地球の緯度変化を詳しく調べることが同協会で取り決められ観測所の設立のため1898年(明治31)文部省内に測地学委員会が設けられました。最初の委員長は東京天文台初代台長の寺尾寿(てらお・ひさし 1855〜1923)です。寺尾は福岡県出身の天文学者でパリ天文台で天文学を研究し1882年(明治15)、金星の太陽面通過現象(このホームページの「金星太陽面通過観測」で説明)のあった際、カリブ海にあるフランス領マルティニーク島での観測に参加しました。帰国後、文部省准奏任御用掛となり仙台での経緯度測定に従事しています。(このホームページ「内務省、経緯度の測量」で説明)1883年(明治16)には東京物理学校の初代校長に就任し翌年、東京大学理学部星学科教授に就任、1888年(明治21)、東京大学附属東京天文台(現、国立天文台の前身)の初代台長に就任しています。また1889年(明治22)パリで開かれた万国測地学協会の総会に委員として出席し、この際、日本にメートル原器を持ち帰っています。
測地学委員会は緯度観測のほか重力測定、測地用基線尺の比較、鉛直線偏差測定の事業を行いました。初期の成果では木村栄によるz項の発見、長岡半太郎(1865〜1950)、田中館愛橘などによる重力測定、中野徳郎(なかの・とくろう 1874〜1932、海軍水路部技師)による経度観測(原点経度の変更)などが注目されます。戦後、測地学委員会の後継として1949年(昭和24)、測地学審議会が発足しています。
測地学者の切手
測地学者であった長岡半太郎、寺田寅彦、田中館愛橘の切手があります。それぞれ測地学以外の分野でも活躍があり切手のデザインも工夫されています。
長岡半太郎の切手は没後50年として2000年(平成12)に発行されています。長岡は1903年(明治36)に原子モデル(土星形原子模型)の提唱を行いました。切手面にはそれが表れています。寺田寅彦の切手は1952年(昭和27)年に発行されています。X線による結晶解析の研究など物理学者としても、また随筆家としても有名です。田中館愛橘の切手も没後50年として2002年(平成14)に発行されました。田中館はローマ字論者としても有名です。切手画面にはローマ字なら容易に打てるタイプライターがあり、名前のローマ字表記は田中館が日本式ローマ字の普及に努めたことからヘボン式(AIKITSU)ではなく日本式(AIKITU)になっています。
飛島の経緯度観測
寺田寅彦(1878〜1935)は日本海沖合いの奥尻島、飛島、佐渡島、壱岐島などが弧状に本土沿岸と並列していることに着目してユーラシア大陸東端の分割、移動によって日本海ができたとき日本列島本土から取り残された島々であるとし、さらに飛島と本土の距離は延伸していくと仮定し1927年(昭和2)の測地学委員会で位置の実測を提案しました。大陸の分割、移動はウェグナー(Alfred Wegner 1880〜1930 ドイツの気象学者、南極大陸横断中に行方不明)による大陸移動説があります。大陸移動説は大陸が分裂し移動する原動力を当時うまく説明できないこともあって研究者の支持を失っていきましたが地磁気を昔に遡って研究する古地磁気学の研究から求められた大陸移動はウェグナーの説と大筋で一致し1950年代には大陸移動説は劇的に復活しました。1970年代になると大陸の移動をプレートの動きとして説明できるプレートテクトニクスの考え方が発展してきました。
1928年(昭和3)飛島の移動を確認するため測地学委員会が飛島の柏木山と比較点として酒田市近郊の飯盛山と三崎山で天文観測により経緯度の測定を行ないました。これらの地点の三角測量は1900年(明治33)と1929年(昭和4)陸地測量部により実施されています。しかしこの時点では有意差は得られませんでした。寺田は1934年(昭和9)、測地学委員会で観測を継続することを主張し天文観測が繰り返されました。1928年(昭和3)と1934年(昭和9)の観測結果では飯盛山はほとんど変化がなく三崎山と飛島はともに西に約1メートル移動したという結果が得られました。しかし宮地政司(みやじ・まさし 1902〜1986 後年東京天文台長、当時東京大学か)は有意差であることを否定し今後の観測に期待しています。[日本地学史編纂委員会、東京地学協会: 日本地学の展開(大正13年〜昭和20年)その3「地学雑誌」112(1)号 東京地学協会 2003 p136][辻光之助:野外經緯度觀測の誤差 「東京天文臺報」第八號 第二巻 第四冊 東京天文臺 1934 p191]
1954年(昭和29)になって地理調査所により測量が再開されました。その結果、見かけ上23年間で西へ約8メートル移動したようですが確定することは不可能でした。[奥田豊三、檀原毅、大塚義徳:飛島の測地並びに天文位置の再測 「測地学会誌」第1巻2号 1955 p42]
近年は国土地理院が設置した電子基準点によるGPS連続観測が行なわれています。1998年(平成10)から10年間のデータでは(飛島・酒田間基線変化グラフ)では10年間で4センチメートル程度、観測点間の距離は徐々に短くなっているようです。しかしこれは短期間の現象かもしれません。これだけのデータで飛島または本土の移動を立証することは無理があります。。[上西勝也:測地観測遺跡の残存状況 「測地学会誌」55巻1号 2009年 日本測地学会 p99]
飛島柏木山の経緯度観測点
地図:酒田北部
酒田市から定期船により1時間半で飛島勝浦港に到着します。港から南の陸橋を渡りすぐに遊歩道の急な階段を登ります。ほどなく平坦な道になり北側に経緯度観測点への道標が見られます。道標から北へ約50メートルに観測点が見つかります。1928年(昭和3)文部省測地学委員会によって設置された観測台です。
観測台は直径65、地上高さ70センチメートルのコンクリート製円柱で骨材がかなり露出しています。東側面には上面から32センチメートルのところに縦10、横7センチメートルの金属板があり「經緯度觀測點」「昭和三年七、八月」「文部省測地學委員會測定」と縦書き、ついで細長い十字印があり、その左には「Pier of the Astronomical Coordinates.」「July-Aug. 1928.」「Geodetic Committee of Japan.」と横書きの刻字があります。
上面中央には縦10.4、横7.5センチメートルの金属板があり側面と同じことが刻字されていますが「昭和三年・・・・」のところは判読不可能でした。
「L」の表示があるプレートは島内観光地図の照合用です。一等三角点「飛島」5839−64−1301はこの観測台の東7メートルにあるのですが背丈を越えるイタドリと笹のジャングルのなかです。
酒田市飯森山の経緯度観測点
地図:酒田南部
JR酒田の南西5キロメートル、最上川の南にある小高い丘が飯森山です。麓の土門拳記念館の手前から徒歩10分で到達できます。この位置には1928年(昭和3)文部省測地学委員会によって設置された経緯度観測台が残存しています。
観測台は直径68、地上高さ55センチメートルのコンクリート製円柱で骨材がかなり露出しています。 上面と南側面にプレート跡だけあり南側面はプラスチック板が貼付されいますが文字は消えています。この観測台の傍には酒田市が設置した経緯度観測点の説明板があります。また一等三角点「飯森山」5839−26−6601は観測台の北3メートルの芝生のなかに見られます。
象潟三崎山の経緯度観測点
地図:小砂川(こさがわ)
JR羽越本線の小砂川から南2キロメートルの鳥海山麓に位置します。国道7号を北上し三崎公園を過ぎたあたりから、一たん西へ入り国道、JRをまわり込んで東の山道に入り、土採り場を過ぎ東北電力小砂川無線中継所からは徒歩で南に見える小高い丘、三崎山に登ります。雑草に覆われた踏み跡を10分たらずで到達できます。山頂は雑木、雑草で展望は得られません。この位置には1928年(昭和3)文部省測地学委員会によって設置された経緯度観測点が残存しています。
観測台は直径66、地上高さ79センチメートルのコンクリート製円柱で骨材がかなり露出しています。 上面にはプレート跡だけあり南側面は縦9.3、横7.7センチメートルの金属板があり「經緯度觀測點」「昭和三年八月」「文部省測地學委員會測定」と縦書き、ついで細長い十字印があり、その左には「Pier of the Astronomical Coordinates.」「Aug. 1928.」「Geodetic Committee of Japan.」と横書きの刻字があります。一等三角点「三崎山」5839−57−4101は観測台の南西1.5メートルにあります。
測地学委員会による重力測定
わが国の重力測定では1880年(明治13)東京大学物理学教授メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 1841〜1924)により理科大学、富士山頂で測定されましたが1899年(明治32)から文部省測地学委員会としてポツダム・東京間の比較測定ののち京都、金沢、水沢、ついで1915年(大正4)までに全国122点でステルネック(Sterneck)型重力振子を改良したシュトゥクラート(Stueckrath)重力振子装置を用て測定されました。長岡半太郎(前出)、田中館愛橘(前出)、新城新蔵(1873〜1938)、大谷亮吉(おおたに・りょうきち 1875〜1934)、志田順(しだ・とし 1876〜1936)、山本一清(やまもと・いっせい 1889〜1959)などが従事しています。使用された振子は質量約1キログラムの錘に長さ約25センチメートルの金属棒がついたもので4個一組を正方形の頂点に配置して振らせ振子につけた鏡による光線の反射を利用して周期を測りました。
昭和初期からは朝鮮、満州での測定のほか海上での重力測定も行なわれました。この頃、オランダのベニング・マイネス(F.A. Venig Meinesz) は波による動揺がすくない潜水艦を利用して海域における重力測定に成功しています。松山基範(まつやま・もとのり 1884〜1958)、坪井忠二(1902〜1982)も測地学者として重力測定の業績が評価されています。松山は1934年(昭和9)から潜水艦(海軍呂号第57、伊号24)により釧路沖から小笠原まで測定をおこないました。伊号24は1942年(昭和17),オーストラリア北西方のチモール海で撃沈されています。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p121][中川一郎:京都大学における重力基準点について 京都大学理学部 1988 p6][松山基範:日本に於ける重力測定と其成果 日本學術協會報告 第9巻 第1號 日本學術協會 1934 p7][日本地学史編纂委員会、東京地学協会: 日本地学の展開(大正13年〜昭和20年)その2 地学雑誌 110(3)号 東京地学協会 2001 p365]
京都大学 新城新蔵像
地図:京都東北部
新城新蔵(しんじょう・しんぞう 1873〜1938)は福島県会津若松出身、1895年(明治28)に帝国大学理科大学物理学科卒業後、測地学で活躍し1904年(明治37)頃まで震災予防調査会と後続の測地学委員会の事業として長岡半太郎、田中舘愛橘、大谷亮吉らとともに日本各地の重力および地磁気測定に従事しました。のちに、この研究は松山基範に継承されました。また新城は太陽系を含むすべての恒星の形成を説明できる理論「宇宙進化論」を唱えたことでも広く知られています。1918年京都帝国大学に宇宙物理学教室を新設し理学部長をへて1929(昭和4)年京都帝国大学第8代総長に就任し1938年(昭和13)中国南京にて死去しました。 京都大学本部の時計台の東に銅像があります。
京都大学での最も古い重力測定は1899年(明治32)で長岡半太郎、新城新蔵、大谷亮吉によってレプソルド(Repsold)振子による絶対測定が行なわれています。位置は物理学教室大聴講室の隣で現在の本部時計台の西にあたります。[東中秀雄 京都大学における重力基点 九十九地学 第2号 京都大学教養部地学教室 1967(中川一郎:京都大学における重力基準点について 京都大学理学部 に再録 p43)]
岡山県立津山高校の重力測定台跡
地図:津山西部
JR津山から北1.5キロメートルにある岡山県立津山高等学校には測地学委員会が明治後期に観測したとされる重力測定台の遺跡が残存しています。重要文化財になっている旧岡山県津山中学校本館の南東端から東へ15メートル、旧図書館の北に観測台があります。学校敷地内ですから見学はお断りが必要です。南北60、東西90センチメートル、地上高さ10センチメートルの粗雑なコンクリートで骨材も露出しています。直径18〜19センチメートルの穴が3ヶ所空いています。うち1ヶ所は西端(本館側)から16、北端(正門側)から26センチメートル内側で、ほかの2ヶ所は東端から14、北、南端からそれぞれ8センチメートルの位置です。これは木杭を打ち込んで基礎を強化したものと思われます。「測量・地図百年史」には沼津、静岡....の測定例として「松丸太を3本埋め込んだコンクリートブロックを作り丸太の上に振子の台を固定した」とあり津山高校の遺跡はこの裏づけになると思われます。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p122]。
学校で建てられた説明板には「津山重力測定定点 測点番号・・・・94」と経緯度などが記載されています。測定年については同校(旧制津山中学校)の機関紙「鶴城」の1904年(明治37)8月の学校記事(日誌)にはつぎのように記載されています。
一日 文部省測地學委員數名來校觀測に從事せらるる 四日 右觀測終了 [津山中学校:鶴城 明治38年3月3日版 1905 p91]
この重力測定は1904年(明治37)に測地学委員会によって行われたもので全国122地点の重力点のひとつと考えられています。また「測地学委員会沿革」(発行年不詳)の明治37年8月8日のところには嘱託員大谷亮吉が出張し津山はじめ10点の重力を測定したことが記述されており裏づけになります。[田口雅司:重力測定方法について 岡山県立津山高等学校紀要 第1号 1994 p5][測地学委員会沿革 発行年不明(1924頃)p45〜46][上西勝也:測地観測遺跡の残存状況「測地学会誌」55巻1号 2009年 日本測地学会 p98]
山口県立豊浦高校の重力測定記念碑
地図:下関
下関市長府にある山口県立豊浦(とよら)高等学校の校庭には「重力測定記念碑」があります。正面玄関に向かって右手奥の中庭の端に見られます。上面一辺23〜28、底面一辺39〜42、地上高さ80センチメートルの角錐が一辺71〜88、地上からの厚さ6センチメートルの台石に載っています。上面には羅針が刻まれ北面は「測定重力値九七九.六九一秒〇△」東面は「明治四十一季八月文部省委員測定 第三十六回卒業生△△」南面は刻字なし、西面は「東經百三十一度〇分 北緯三十四度〇分」(△は字体判読難)の刻字があります。第36回卒業は1936年(昭和11)になります。この記念碑は学校敷地内ですから見学は事前の許可が必要です。同校百年史によれば
明治四十一年八月八日、午後遅く、文部省測定委員会が来校し同夜10時まで作業し、それから連日徹夜作業をした。八月十二日作業を完了した委員は、午前九時に引き上げていった...と伝えられている。この碑の建設を提案したのは、当時理科を担当していた巴川涼重(ともかわ・りょうしげ)教諭である。(一部略)[豊浦高等学校:山口県立豊浦高等学校百年史 2002 p226]
文中の「測定委員会」は「測地学委員会」の誤記と思われます。また徹夜作業がつづいたことは経緯度の天測が行なわれたことを意味するようです。「測地学委員会沿革」(発行年不詳)の明治41年7月17日のところには嘱託員志田順ほかが出張し長府はじめ9点の重力を測定したことが記述されおり裏づけになります。[測地学委員会沿革 発行年不明 p56]
測地学、とりわけ重力測定に尽力した京都大学の松山基範(前出、旧姓は墨江)は豊浦高校の前身、旧制豊浦中学校、第3回1903年(明治36)卒業で、1936年(昭和11)にこの記念碑を訪れています。[豊浦高等学校:山口県立豊浦高等学校百年史 2002 p487]。[上西勝也:測地観測遺跡の残存状況「測地学会誌」55巻1号 2009年 日本測地学会 p98]