「本初子午線」というのは地球経度0度の子午線をいうのですが1884年(明治17)米国ワシントンで開かれた万国測地会議で世界的に英国の旧グリニッチ天文台の子午環を通る子午線と決められ現在はこれに従っています。この万国測地会議には日本政府委員として菊地大麓(きくち・だいろく 1855〜1917 東京帝国大学総長、文部大臣を歴任)が出席しました。明治維新以前には京都を「中度」とよび本初子午線(中央経線)とされていましたが維新後は一時、東京になっています。[内務省:内務省年報 明治十八年報告(復刻版 三一書房 1984 p287)]
東京の本初子午線もあちこち移動したようです。明治初期は現港区虎ノ門のホテルオークラ付近(当時は赤坂区溜池葵町三番地)にあった内務省地理局測量課で1882年(明治15)からは皇居東御苑天守台跡の内務省地理局天文台でした。[荒井郁之助:日本ノ地學經度 東京地學協會報告 第七巻一号 1885 p17−32][藤井陽一郎:内務省地理局の三角測量事業 「科学史研究」70号 日本科学史学会 1964 p74−75]
日本の法律で本初子午線を定めたものは1886年(明治19)の勅令第51号でつぎのとおりです。
朕本初子午線經度計算方及標準時ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
御名 御璽
明治十九年七月十二日
一 英国グリニッチ天文臺子午儀ノ中心ヲ經過スル子午線ヲ以テ經度ノ本初子午線トス
一 經度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東經ヲ正トシ西經ヲ負トス
一 明治二十一年一月一日ヨリ東經百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム
[勅令第51号 本初子午線經度計算方及標準時 明治19年7月12日 1886]
明石市 標準時子午線標識
地図:須磨
明石市は東経135度の子午線上にあり市街を歩くといたるところに「しごせんのまち」、「日本標準時のまち」という表示がみられます。下水マンホールのふたまで、そのような表示があります。写真は明石天文台近くの天文町二丁目の「子午線交番」の横にある子午線標識ですが標石の最下部には中心線を示す線が彫られています。1910年(明治43)当時の明石郡小学校の教員のみなさんが寄付され、当時の相生町に設置されたものですがその後改測により1928年(昭和3)に現在地に移設されています。標石の表面は「大日本中央標準時子午線通過地識標」と刻字されています。この標石は明石でもっとも古い子午線標識です。
ついで1928年(昭和3)に明石市教育委員会が昭和天皇の御大典記念事業としてあらたな子午線標識が計画され京都大学の天文測量により1930年(昭和5)現在の天文科学館裏の人丸山という小高い丘にある月照寺山門前に設置されましたが1951年(昭和26)の改測で約10メートル現在地に移動しました。「トンボの標識」の愛称がある標柱の高さは7メートルあり柱上部のかごは地球を、トンボは日本の異名である「あきつしま」を象徴しています。
標準時子午線東経135度は天文測量による「天文経度」であって準拠楕円体と日本経緯度原点を基準とした「測地経度」(日本測地系)とは一致しませんでした。2002年(平成14)に経緯度の基準が日本測地系から世界測地系に変更されたため世界測地系の東経135度子午線は日本測地系の東経135度より約260メートル東を通過することになりました。天文経度の東経135度からは約120メートル西になります。以前にくらべて測地経度と天文経度が接近したわけです。
「大日本中央標準時子午線通過地識標」は天文町の大蔵交番のすぐ横にあるのですが、この交番は通称「子午線交番」といい、金ぴかの表札も右扉の右上に掲げられています。交番の建物も天文台のような形で地元のひとに親しまれています。
天文科学館交番から「子午線交番」へ下ってくる途中に山陽電鉄の人丸駅があります。この駅のプラットホームにも135度の子午線が横断しておりタイルに標示があります。普通列車しか止まりません。
明石市の中心部には「魚の棚」とよばれる魚屋街があり新鮮な魚介類を買い求める人でいつも賑わっています。「魚の棚」の入り口角に「人丸」という菓子屋(078−912−2020)があり「子午せん」という煎餅が売られています。煎餅に砂糖で日本地図と子午線が描かれています。英語の説明もついていました。
いま日本では1886年(明治19)に制定された標準時がただ一つですが、かっては、いろいろあったようです。日清戦争後の1896年(明治29)には台湾、八重山、宮古列島の標準時として東経120度の子午線の時刻を西部標準時(東経135度より1時間遅れ)の名称で採用され、それまでの標準時は「中央標準時」とよばれましたが政治、経済、交通などの都合で1937年(昭和12)に廃止されました。[青木信仰:時と暦 東京大学出版会 1982 p220]
また1919年(大正8)から1945年(昭和20)まで南洋群島の標準時として東経135度の子午線を南洋群島西部標準時、東経150度を同中部標準時、東経165度を同東部標準時とされました。[国立天文台:理科年表 19 丸善 1996 p50]
三鷹国際報時所
地図:吉祥寺
国立天文台構内の西端に寺田寅彦の書と伝えられる「三鷹国際報時所」と書かれた門柱が建っています。周囲は雑草に覆われ建物は消滅しています。1923年(大正12)、文部省測地学委員会に国際報時所が設置され三鷹構内で国際報時の受信を開始、翌年には時刻観測と報時信号の発信が行われました。子午儀で得られた正確な時刻をリーフラー振子時計という標準時計に移し、さらに発信時計に同期させて報時されました。[東京天文台:東京大学東京天文台の百年 東京大学出版会 1978 p58][東京帝國大學:東京帝國大學學術大觀 p543−550]
国立天文台本館の裏には日本中央標準時決定用の子午儀の台座が「日本の時刻決定の基準点」として残置されています。1924年(大正13)から1955年(昭和30)まで使用され、天文経度は9時18分10.108秒(東経139度32分31.62秒)でした。
リーフラー振子時計はドイツのジグムント・リーフラー(Sigmund Riefler 1848〜1912)が1891年(明治24)に開発した精度の高い天文時計です。時計全体は下部の鉄の筒と上部のガラス容器で密閉されており振子の振動が空気抵抗によって減衰するのを防ぐため減圧して使用され信号は電気的に取り出します。クレメンス・リーフラー社(Clemens Riefler)で製作され最高の日差50分の1秒に達しました。
1943年(昭和18)には高さ60メートルの報時用のアンテナ鉄塔に軍用機が接触、墜落する事故もありました。1948年(昭和23)、測地学委員会は解消し三鷹国際報時所は東京天文台に併合されました。1951年(昭和26)からは標準時計はリーフラー振子時計よりも優れた水晶時計群にかわり、これに合わせた小金井の電波管理総局(現情報通信研究機構)にある水晶時計によって発信されることになりました。近年は情報通信研究機構が運用する12台のセシウム原子時計の時刻を1日1回平均、合成し協定世界時(UTC)を生成し、これを9時間進めたものが日本標準時(JST)としています。日本標準時は標準電波 (JJY)やインターネット、電話回線を通じて供給されています。最近は水素メーザー原子時計を使用することで一層精度の高い時刻になっています。標準電波は福島県田村市の大鷹鳥谷山と佐賀市の羽金山の山頂から40キロヘルツと60キロヘルツで発信されています。
午砲(号砲)
地図:吉祥寺
報時とは音、光、電気、電波などの手段により一般に時刻を知らせることで古くは鐘や太鼓の音によっていました。日本書紀には660年(斉明天皇6年)「皇太子初めて漏剋を造り、民をして時を知らしむ」また671年(天智天皇10年)「はじめて漏剋を行う」とあります。漏剋(ろうこく)は水時計のことで中国では紀元前4世紀頃から利用されていました。
清少納言の枕草子には「時司などは、ただかたはらにて、鼓の音も例のには似ず聞ゆる」(能因本一六五段・故殿の御服)、「時丑三つ、子四つなど、時の杭さす音など、いみじうをかし。子九つ、丑八つなどこそ、里びたる人は言へ、すべて四つのみぞ杭はさしける」(能因本二六九段、時奏)とあります。時司(ときづかさ)は中世以降、天文暦学業務を担当した陰陽寮(おんみょうりょう)に所属して時刻を知らせる役人のことで筒に杭を差し込んで音をだす様子が描かれています。1872年(明治5)までは宮城内の太鼓櫓で時報太鼓がつかわれていました。
1871年(明治4)以来、太政布告により皇居内本丸で正午に号砲を放って報時とすることになり「ドン」と愛称されていました。最初は兵部省が行っていましたが1875(明治8)には東京鎮台、その後は衛戍(えいじゅ)兵、近衛師団が受け持っていました。
明治四辛未年八月 太政官 第四百五十三 九月二日(布)
舊本丸ニ於テ來ル九日ヨリ晝十二字大砲一發ツ、毎日時號砲執行候條爲心得相達候事
[内閣官報局:明治四年法令全書 1888 p337]
明治中期の報時事業は内務省地理局が担当しましたが1888年(明治21)以降は東京天文台(現国立天文台)に移され陸軍省の依頼によって毎日正午に号砲用のクロノメーターの比較を行い、また逓信省の求めにより正午の通報を行っています。[東京天文台:東京天文台90周年誌 1968 p6]
皇居内本丸の号砲は1922年(大正11)には東京市が引き継ぎ1929年(昭和4)からはサイレンにかわりました。各地方都市も1879年(明治12)から午砲による報時を行い、のちにサイレンからラジオやテレビによる放送局の報時になりました。当時の午砲は現在、小金井市にある江戸東京たてもの園の本館裏に保存されています。砲身の長さは約2メートルあります。
船舶ではかつてクロノメーターを載せ正確な時刻を保持し天体観測により航海中の船舶の位置を知ることができましたが港湾の埠頭に吊るした「報時球」を正午に落下させ、それを観測することによって正確な時刻を知る方法もありました。1903年(明治36)には横浜、神戸に報時球が設置されその後、大阪、門司、長崎、大阪などの港でも行われたようです。いずれも近年は標準電波による報時になっています。[青木信仰:時と暦 東京大学出版会 1982 p43−47]